正岡子規 最後の六畳間の世界(根岸)
根岸・・・と聞くだけで、東京下町。
根っからの江戸っ子が今も住んでそうな街の響き。
正岡子規が、どんな人か、何をした人かわからない人でも、ちょくちょく正岡子規って名前を聞くと思う。
若干34才でこの世を去ったのに・・・なぜこんなにも名を残しているのか?
今の東大に入る前に、吐血したことがきっかけで中国の故事「杜鵑の吐血」にちなんで俳号を子規(ホトトギスの漢字表記)と号した子規は、とても交友関係が広く、またその人柄からいつも子規の周りに人が訪れた。
その子規が、新聞社に勤め始めて根岸に住み。最後を過ごした家を尋ねてみた。
↑ガラス障子:外出出来ない子規の為に、障子をガラスに変えらていて、
机も足を曲げれなくなった子規の為に足が立てれるように作られている。
友人・知人の協力があったからこその風景がまだ残っていて、一番いい部屋を子規に使わせている家族の温かさが感じられる。
思わず、何かに感謝したくなった。
↓子規の病床に、幼馴染の秋山真之が訪ねてくるシーン『坂の上の雲より』
秋山真之とは故郷松山の幼馴染みで家族付き合いのある親友。秋山や文壇に多くの友人・知人・弟子がいたからこそ俳句の世界だけではなく、多方面で影響を与え、子規とは何をした人なのか?と不思議になるくらい生きた証・生きる強さが語り継がれて現在にもファンが絶えないのだろう。
そして、現在の子規庵。
昭和20年に空襲で焼失したのを、隣人であり高弟の寒川鼠骨ら門人等の尽力により昭和25年にほぼ当時のままの姿に再建されているそうです。中の写真撮影は禁止でしたので、写真は入り口まで。
この区画に、日本新聞社長の陸羯南や寒川が住んでいたのかなぁ〜。
ここで、羽二重餅いっぱい食べたんやろなぁ〜と、いろいろ妄想・・・。
↑子規庵の玄関。写真が写せるのはココだけ。
小さいながら、いや、小さいからこそ・・・外への憧れを感じさせる空間。
(利休の待庵のような、同じ空気感を感じた)それでいて、居心地がいい。
私も、誠意一杯生きないと・・・ね。
高野山の絶品 生胡麻豆腐食べくらべ(賞味期限1日)
高野山と言えば、高野豆腐に胡麻豆腐。私は、しっとりとした胡麻豆腐が大好き。
今回は、その胡麻豆腐どこが美味しいか調査して来ましたよ!
郷土ごはんというか、おかずですね〜。
胡麻と葛で作るナマ胡麻豆腐は、本来賞味期限は1日どす。
是非、自分好みの生胡麻豆腐に出会って下さい。
今回は、和歌山観光連盟さんが「胡麻豆腐の店」として紹介掲載していたのを
参考に4店舗で調査しましたよ。
胡麻豆腐三昧です。一気に食べ比べるのは、大変ですっ!
高野山到着して、一番に向かったのは、カドハマ〜♪
実は昨日、地元のスーパーで見かけました。4店舗の中で一番手に入り易い高野山産胡麻豆腐かもしれません。みなさんの近くにも売っているコトがあるかも?
しか〜し、山内ではもちろん生・ナマ・なまっ!が買えます!
一番小さくて6個入りが864円!すぐに頂きたくて、公園発見!
しか〜し、醤油もわさびも、お箸もな〜い。
包みなおして、店内で食べれる唯一の店、濱田屋に向かう事に!
猫でもお箸は必要?
夜頂きました。
しっかりとねっちょりしてます。(笑)ゴマの苦味も残っていて大人な味です。
宿坊の夜ご飯に出ていた、わさびと醤油を拝借して頂きました。
ゴマ粒が見えないので、なんと表現したら良いかわからないのですが、キメの細かさ
が濱田屋さんの方があった気がします。というか、こちらの方が重たい食感ですね。
時間が経っているからかも知れませんが、良い言い方をすると濃厚で食べ応えがある
感じです。コスパ良いですね〜。充分です。さらに、弘法大師は今もココの胡麻豆腐
を頂いているそうです(生身供として)。
なんだか嫌な予感を感じ、小走りに・・・。小走り・こばしり・・・はしり・・
警備員がなんか叫んでいます・・・。危険な感じ。ご主人ほって滑り込む私。
『食事分あとふたつです〜』って中から。『はい!二人です!』と、即答するも、後ろの2人組も、手をあげてる・・・ゲッ・・・。思いは同じ。分け合いましょう♪
あ〜ぎりぎりに、食べられるこの幸せ。あの時、公園で箸があったら出会えなかったこのプルプルです。もちろんナマ!
濱田屋は営業日が少ないので必ず、HPでチェックしてから、もしくは買うのが決まっていたら、予約がベストです。いや、予約しましょう!
ベストシーズンは昼頃で販売終了の日もありますから〜!
さらに、ここは持ち帰りのチェックが厳しいのも有名です。持参のクーラーボックスも、車にあるなんて言っても許されませんっ!店員さんにキチンとお見せしましょう!(笑)
で、お味の方は・・・
もちろん美味でございます。何もつけずに食べると、食感はプルップルのわらび餅のようで、写真のとおり、きめ細やかでつやっつやっで、優しさの中にゴマの苦味が出てきます。こんな艶っぽい胡麻豆腐は、お初にお目にかかります。
しかし、わさびと醤油をつけると、なんてことでしょう!ヽ(〃v〃)ノ
ゴマの苦味が香り・風味だけ残し甘みを出してきますぅ〜。あっというまにぺろんちょです。ちゃんと、ねっちょり感もあります。ナマが持ち帰えれない場合は、是非ココで。300円で食べれます。
入り口横の、豆腐にも使われている湧き水も美味しいので、是非飲んでみてね。
1日目の胡麻豆腐は調査は終了。
宿坊のお部屋で、角濱さんと夜ご飯の精進料理で頂きます。すでに食べ過ぎ〜٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
2日目
昨日、濱田屋に小走りに向かっている時に、道の向こうに見えた森下商店。
三店舗の中、家族でやってます的な雰囲気がいい感じ。ちょいとレトロ感もあり、
飾らない感じが良いです。こちらは、家に帰って頂きます。一つ(6個入)1,050円。
夜ご飯に、頂きました!ねっちょり感があるので、綺麗に盛り付けれません(笑)
でしたが、真っ白で、やっぱり美味しい。普段食べれない味だと・・・家だと
余計感じてしまいますね。
実は、早くからここの胡麻豆腐諦めていました。
下調べの時点で売っている情報が少なくて。もう6個以上食べてるから(宿坊でも食べてる・基本6個売り)ちょっと、お腹いっぱい。さらに、夜ご飯に森下さん試食予定。
しかし、なんと。九度山の道の駅で、売っているではありませんか?
やさしい2個売り!さらに190円!買わない理由が見つかりませんっ!
この道の駅・柑橘類も安くて沢山あってテンション上がります。
一番のオススメはパンでした!下記に追記しておきます。
話は、胡麻豆腐の味に。鈴木食品さんも、持ち帰って食べました。
写真のとおり、一番みずみずしいです。悪く言えば水っぽい。もちっと感が一番無くて、さらっとしてさっぱりタイプです。羊羹で言えば、水羊羹的な?
冷奴感覚で食べれます。人それぞれ好みがあるのですが、濱田屋より鈴木食品の方が好きという人も多いようです。
子供に一番人気なのも苦味もあまり感じないからでしょう。
さらに、コスパの面からも日常的に食べれます。
胡麻豆腐=高級食材と思っている私は、食べ応えのあるネチっとした方が、ちびちび酒のアテとして楽しめる気がしますが、和歌山に住んでたら毎週ココのを買います(笑)
4店舗食べ比べてみて(生ごまどうふのみの感想)
値段 鈴木商店>角濱胡麻豆腐>森下商店>濱田屋
苦味 濱田屋>角濱胡麻豆腐>森下商店>鈴木商店
ねっとり 角濱胡麻豆腐>濱田屋>森下商店>鈴木商店
おつかい 濱田屋>角濱胡麻豆腐>森下商店>鈴木商店
個人的に 濱田屋(来客用)>角濱胡麻豆腐=森下商店(ご褒美用)>鈴木商店(朝食用)
上記に記載したとおり、私はねっちょり派なので、鈴木商店さんはさっぱり朝食で毎日頂きたい感じです。夜は角濱・森下さんで一杯。濱田屋さんは見た目も素晴らしいので、来客の予定があるときは、あると華やぎますね。小さいお子様のいるファミリー層には、苦味の少ない鈴木商店がオススメです。
で、余談ですが…びっくり美味しかったので。道の駅のオススメナンバー1がこちら。
真田ゆかりの地。そろそろ、このパンを食べたという偉人が出てくる?
無理やりでも、のっけたいオヤツ。パンだけど、軽いのでオヤツに。
道の駅のパン屋さんで売っている柿とくるみとレーズンが入ったパン。
柿が絶妙にいいっ!初めて柿の入ったパン食べたけど・・・杏子のような出で立ちなのに、あっさりして甘くなくて、レーズンとくるみが引き立てで。
レーズンパンが苦手なご主人様も、甘いパンが苦手なおいらも、お腹減ってないのに、パクパク食べ切っちゃった。柿の里ならではのパンを是非。
これは、何度もおかわりした麩まんじゅう。山内に販売していたのは、『麩善』。2カ所ある店舗では1個から売ってくださるので、歩き食べに持ってこい。ちなみに、新しくできた『西利』の喫茶でも飲食できるので、飲み物と一緒に食べたい方は、『西利』で食べるといいと思う。
1個140円。(西利でも)
甘さ控えめで、麩のもっちり感がなんていうんだろ〜自然。なんか無理してない感じ?
手作りの味って感じかな。よく言う、やさしい味で、やさしいもっちり。
伝わんないよね〜。甘くないから、2•3個食べれちゃいます。
車で高野山行く人は通る学文路(かむろ)。このあたりは、やきもち屋さんが多くて、昔の道中の休憩場所だったよう。最近では、道の駅・お土産などにも売っているので、見つけたら食べておくんなまし。ってか、われわれ食べ過ぎ〜。でも、高野山のあんこって甘くないんです。
だから、飽きない。反対に一個じゃもの足んない時もあるくらいっ(笑)
街道沿いに、お餅屋さんがあるのは、長旅歩きの人にちょうどいいからのようです。
食べやすくて、腹持ちよくて、歩きに支障が出ない(噛んで、満腹中枢刺激?うどん・そばもいいけど、つるっと食べて以外に後で、お腹一杯で眠たくなっちゃうと歩けないそうです)。
次はどこ行こうかな〜。
水戸城・・学問の街散歩・・・ (No.14) 茨城
現在は城壁と薬医門と呼ばれる門が残るくらいですが、日本100名城のNo.14となる水戸城。現在は水戸第一高校の校門に変わり、後ろに写っているが体育館、左横はテニスコートになっていて、ココまで入れます。
本丸の前は、二の丸にあたり、すぐ水戸第三高校とのこと。弘道館も近いところから、今も学問の町だね。本丸の堀には鉄道が走っています。
水戸城は平安時代に馬場氏により築城されたと思われる。後に城主となった江戸氏と佐竹氏の対立が続きこのタイルつは小田原征伐で終結した。
(北条についた江戸氏VS秀吉についた佐竹氏)
しかし、関ヶ原の戦いで佐竹氏が曖昧な態度をとったことがきっかけで家康に秋田に飛ばされ徳川家が入ることになった。→水戸徳川家の始まり。
↑門を横から撮った図。
本城橋
橋の下が当時お堀で現在電車が走っているところ。
手前が水戸一高(本丸)で、橋の向こうに見えているのが、水戸三高(二の丸)。近いっ!
本城橋から撮ったお堀の跡。
橋を右手に行くと、白かべが…。
水戸三高のテニスコートが!入り口も景観に配慮していていい感じっ!
このまま道なりに進むと弘道館に着く。それにしても、城内は、学校が沢山っ‼︎
昔は、水色の部分(特に千波湖)の大きさが今より倍ほどある。
大きなシイの木がありました。
本所橋を弘道館に向かって歩きます。
これは、誰だかわかりますか?知っているはず・・・。そう、格さんのモデルさん。
儒学者で覚兵衛(通称)さんです。なんだか弱そぅ・・・。
覚兵衛さんの前には、師範学校跡があります。
弘道館が奥に見えて来る。この橋の下のお堀も今は車道として利用されてる。
橋を渡りきると、今度は斉昭公の像が。弘道館を指していて、いかにも
ここで日本のために『励め!学べ!』と言われているよう。
街には沢山の銅像がある。弘道館から偕楽園までを歩くなら探してみてね!
駅前には、電動のレンタサイクルがあるので、私たちは自転車で巡ってみました!
これは、とりあえず見んとね〜。駅前だにゃ!
水戸を歩いていると、ほんと沢山の学校があるのにびっくり!
こんな資料があったので、参考に載せとくにゃ
黄門そば
そば・・・めっちゃ太い。めっちゃ・・・多い。(笑)
女性は小盛りにしないと、あと大変です。
けんちん汁つけそば!初めてで大盛り頼んだ人がいましたが、
頼んでびっくりしてました!替え玉ならぬ替え汁出来るそうです。
けんちん汁だけでも野菜がごろごろどんぶりに入っています!
うどんとそばがあり、私たちはうどんの方が好きでした。
スタミナラーメン
最近人気なご当地ラーメンのようです。
なんと、ラーメンにレバーが!
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松蔭も西郷も訪れた学問所 弘道館 (茨城・水戸)
全国一の規模を誇る藩校 弘道館「一張一弛」
天保4年(1833年)初めて水戸に帰国した9代目水戸藩主徳川斉昭は、大日本史の編纂した彰考館を訪れすでに藩校建設に意欲を持っていましたが、天保の基金や藩財政の困難から反対意見も多く、1835年から5年間幕府より毎年5000両の金が下賜することが内定してすると早速藩校の構想に着手しました。藩主となって10年、ようやく念願の藩校建設に取りかかり1841年弘道館を(仮)開設1842年偕楽園を開園させたのです。
弘道館は三の丸の重臣達の屋敷があり、彼らの屋敷を移転させて建てたそうです。
(仮)開設から15年後の1857年が本開館と言われています。
これには、弘道館の聖域と言われる、鹿島神社からの分神遷座や孔子廟の孔子神位などに時間がかかったのだと言われます。
①弘道館:正庁・至善堂がある建物(重要文化財)
②武道の試験が行われた庭
③鹿島神社
④八角堂(復元)
⑤孔子廟(復元)要石歌碑・学生警鐘
⑥文館
⑦武館
⑧医学館
⑨馬場
10 調練場(現在:図書館・三の丸県庁舎)
↑八掛堂 ↑文館のあった跡:現在梅林
現在見学出来る建物・弘道館は、大きく正庁と呼ばれる試験や儀式をするところと、警備や家老たちの詰所と、藩主の休息所(至善堂)に分かれる。ちなみに弘道館とは学問所という意味であり、全国に同じ名前の建物がある。
弘道館は、
家格=実力 の一致を目指していたので、家格により出席日数が違いました。
また、文館は一定水準以上の者しか入館出来なかったが、武館は無試験だったそうです。ちなみに、試験は月2回もありますっ!
さらに、弘道館は15歳から入れるのですが・・・卒業はありませんっ!
一生勉強です!若い者から年配の者まで学びは終わりがないそうです トホホ・・・
まず、玄関で圧倒されます。かならず・・・。
『尊攘』その上に目をやると『弘道館』ともう読みにくくなった扁額は斉昭書。
尊攘も斉昭書と書いていた本があったけど、展示しているのは違う方のよう・・・。
『舞良戸の弾痕』明治元年の弘道館の戦いの際の弾痕。見つけれるかなぁ?
玄関を入ると、右も左も詰所になる。正庁は左。控えの間の『尊攘』に圧巻しながら廊下を進む。三の間・二の間・正席と行くと、敏感な人だけしか分からない細工がしてある。・・・正席だけ少し木戸などが小さく作られている。分からないだろうな〜。
わたしゃわからんかったよ〜。
↓間取りはこんな感じ。下側が玄関で右上が至善堂と呼ばれる間。
この建物の成席と至善堂の畳は葵の畳縁がされていて格式高い部屋ということが一目瞭然!庭を見ると、綺麗な長方形!ここは武術の試験会場!緊張するね〜。庭側の軒下に『游於藝』の扁額がある。これまた斉昭の書。字上手いよね〜。論語の一説にある芸に遊ぶによるものらしく、ここで言う芸とは、六芸と言われ、礼(作法)楽(音楽))射(弓術)御(馬術)書(書道)数(算数)をさし、文武だけではなく芸も極めようという意味だそうだ。
玄関のちょうど反対に、便所と湯殿がある。
湯殿が面白い。真ん中に水が流れやすいように、ちょうど船底のようになっている。
ここで、武術の後や勉強の合間に気合の水浴びでもしたのだろうか・・・。
その先に、十間畳廊下があり、ここは正庁と至善堂を繋ぐ間として、また藩主の警護をする家臣たちの控えの間だった。廊下つたいにまた、三の間・二の間とあり至善堂に至る。
ここは藩主の休息の間であり、藩主の子供達の勉学の場所で、さらに明治元年に徳川慶喜が謹慎したとされる間だ。飾ってあるのは、要石歌碑の拓本で真ん中から上下に読み、「日本古来の道徳は永久に変わらないものであるから、日本人である者はこの道を踏みちがえることがあってはならない」という歌意があります。四の間には、その慶喜ゆかりの長持が展示されている。
溜と呼ばれる部屋には現在農人形と呼ばれる一対の人形が飾られているが、斉昭は農業にもとても関心を持っており、小さな農人形をいつもそばに置き、その器にいつも米粒一粒をお供えしていたそうだ。女中の吉原はお下げする度に、その米粒を乾燥させて保存しておいた。ある時、何もお出しするものがなかったので、その乾燥した米粒を使ってきな粉をまぶしてお出ししたと言うのが水戸銘菓の『吉原殿中』の始まりだそうだ。五家宝の起源でもあり味もほぼ同じだが、しいていえば、吉原殿中の方が大きくさっぱり、ねっとり感が少ないように思う。徳川ミュージアムで小さい農人形を2体ほど見た気がする。あっぷにするとちょっと怖い顔・・・。
↑これが、財政難の根源(笑)斉昭公は、これを諸国大社や公卿らに贈ったようです。
↓その為に、水戸拓が生まれました。
北澤商店(弘道館内)伝統の技:水戸拓
弘道館に伝わる遺墨を拓本した水戸拓。江戸時代に長崎で中国人から拓本の技術を学んで持ち帰ったのが始まりとされ、弘道館内で本の出版を手がけていた北澤家が受け継ぎ現在4代目だそうです。北澤家に伝わる版木は光圀公、斉昭公藤田東湖などを含め100点以上で、大日本史の量産の目的もあったとか・・・。
とりあえず、なんといっても納豆です。水戸は・・・。
そぼろ納豆・納豆のかき揚げ・・・。
この天狗納豆の店名の由来は、水戸の天狗党(攘夷派)から来ているそうだ。
悲しい天狗党の話はまたこんど。
吉田松蔭も22歳の時、東北に遊学した時に、一ヶ月ほど滞在し、会沢正志斎や豊田天功に教えを受けたそうです。
烈公と呼ばれた徳川斉昭の『尊攘』に捧げた一生。
唯一、『天皇のお味方せよ』と代々伝えられていた水戸徳川家。
光圀(義公)からの大日本史編纂事業や江戸詰めで貧乏藩として有名だった。
黒船来航により幕府ではななく、日本(天皇)を守るべき時が来た!
年表には『もうひとりの水戸藩士 著:水野哲太郎』からの解釈を織り込んでいます。
弘道館正面の扁額。
1800年(寛政12)3月11日 1歳:斉昭公生まれる。7代藩主の三男として。
1829月(文政12)11月 30歳:家督相続し、9代藩主となる。
この頃、60年ぶりの伊勢おかげ参りの流行年
1831年(天保2)4月6日 31歳:有栖川織仁親王の娘登美宮を夫人として迎える。
1833年(天保4)3月5日 33歳:初めて水戸に入る(1年滞在)。
偕楽園予定地に梅を植える。昔から水戸では松竹梅ではなく茶竹梅を庭に植える。
1834年(天保5)9月13日 34歳:神武天皇御陵修営を建議。
1837年(天保8) 37歳:天保の改革を始める。
1839(天保10)6月20日 39歳:斉昭が幕府に意見書(戊戌封事)を提出する。
1840年(天保11)1月25日 40歳:2度目の就藩(4年半)追鳥狩・検知などを実施。
1841年(天保12)5月15日 41歳:天保の改革布令
8月1日 弘道館の仮開設。
弘道館について詳しくはこちらをクリック。
(初代教授頭取:会沢正志斎・青山延干)
(斎藤弥九郎:神道無念流)
8月15日 斉昭は大船建造を幕閣へ提案。
1842年(天保13)7月 43歳:偕楽園の開園。
偕楽園は、弘道館の一対のものとして建てられる。財政難にもかかわらず、斉昭悲願の建物。 ここは公園だ!公園だ!と主張すればする程疑わしい作り。見晴らしいい場所。本でも、ガイドもここは戦うための準備がそこかしこに見られる。ここでも斉昭が外国との戦いに備えているのがわかる。
12月26日 藩内の寺院に梵鐘により大砲を作る旨を達する。
東照宮唯一神道に(政・教・祭の一致の為に仏教排斥に)
1843年(天保14)9月11日44歳:老中水野から阿部正弘に変わる。
1844年(天保15)4月2日 45歳:千波湖畔で大がかりな軍事教練・追鳥狩を実施。
4月13日 江戸付家老中山備後守が幕府より詰問される。
4月18日 斉昭、幕府より参府を命ぜられる。
5月 2日 水戸を出発し、5日到着後、謹慎となる。
5月 6日 斉昭が致仕、駒込の屋敷にて謹慎の命(甲辰の変)
5月12日 斉昭が隠居を命ぜられる。
〈弘道館の表門は一時閉ざされる。藩内の派閥争い激化〉
1847年(弘化4)9月1日 48歳:阿部老中の勧めで、7男七郎麿が一橋家を相続する。
1949年 3月14日 50歳:斉昭、藩政参与を許される。
1851年(嘉永4)12月19日〜1月20日 松蔭が水戸に逗留。(弘道館)
1853年(嘉永6)6月3日 54歳:ペリー浦賀に来航。
(このころ常陸の松木がお台場に運ばれる。築造費約75万両)
7月 3日 斉昭、隠居を解かれ海防参与(外交顧問)に命ぜられる。
7月17日 ロシアが長崎に来航。
9月 水戸藩に軍艦一隻の建造命令!(念願叶う)
10月18日 斉昭、大砲74門を幕府に進上する。
常磐神社にある溶解炉。軍艦・大砲と幕府に進上出来る財源があるじゃん?
尊攘に関わる仕事には喜んで進んで提案してやるのがミエミエ。笑
1854年(嘉永7)1月11日 55歳:ペリー再来日。2月10日から林大学ら交渉始める
3月 3日 日米和親条約調印。
4月 5日 反射炉建設のため幕府より1万両を借りる。
1854年(安政元)1月4日55歳:石川島で軍艦着手。(現IHIの前身)
7月9日 日章旗をもって日本国総船印となる。
⇒
斉昭は、総船印についても意見したと言われている。
1856年(安政3)3月4日 57歳:反射炉で銑鉄溶解に成功する。
5月 刻本『大日本史』を諸国大社及び公卿諸侯らに贈る。
9月18日 品川海上の旭日丸に招き宴を張る。
(この頃堀田・阿部が時期将軍に慶喜を打診)
1857年(安政4)5月 58歳:弘道館本開会式
弘道館の聖域と言われる鹿島神社と孔子廟の完成
6月17日 老中阿部正弘が病死(37歳)
斉昭、軍制改革参与を退く。
7月23日 軍制改革等の参与を免ぜられる。
10月21日 ハリス登城。通商条約の交渉始まる。
1858年(安政5)1月 堀田の上洛決定。→斉昭、義兄鷹司正道前関白に手紙を書く。
2月18日 堀田ら、京で関白・太閤らに接触。
4月20日 堀田江戸に帰着。
(この失敗で老中内での発言権失い、大老を置き松平慶永を置くことを提案)
5月 6日 慶喜擁立派の外交官川路が左遷される。
6月19日 日米通商条約調印。
6月24日 斉昭ら登城し、井伊直弼と調印の不可を討論する 。
6月27日 井伊、家茂継嗣を正式に発表。
7月 5日 おしかけ登城を理由に斉昭駒込で急度慎・蟄居・謹慎に。
7月 9日 日下部伊三次ら謹慎を解く為京へ。(雲浜らと合流予定)
8月 8日 戊午の密勅が下る。(日下部らの働きかけによる)
戊午の密勅は、2通作成され、一通は先に水戸藩宛てに発送され、
数日後、幕府宛てに発送された。
8月17日 斉昭(謹慎中)に戊午の密勅が報告される。
8月23日 コレラ大流行
9月 5日 井伊の安政の大獄が始まる。
密勅を画策した雲浜・日下部・公家ら一橋派・攘夷派の取り締まり。
井伊はこれは斉昭の陰謀によるものとして取り締まる。
1859 (安政6)8月27日60歳: 斉昭が「水戸にて永蟄居」を申し渡される。
9月 1日 斉昭が永蟄居を申し渡され水戸へ向かう→4日水戸着。
12月16日 幕府、戊午の密勅を返納する勅書を書いてもう。
(天皇は条約については、一時しのぎだと判ったから、密勅は返納でいいと)
幕府側は、不利な事も書かれてあった勅書は見せずに、水戸藩に返納を迫ったため
水戸藩は、返納は天皇のご意思と信じる派と信じない派に分裂‼︎
12月20日 斉昭参加で勅諚返納の大評議(水戸城内)
1860(安政7)1月13日61歳:咸臨丸、品川を出発。
1月15日 安藤信正が老中に。密勅の返還要求が厳しくなる。
(3月5日を起源とする最後通牒)
2月15日 斉昭が水戸士民に勅諚返納を諭す。
藩主・元藩主が返納しろと言っても、もはや聞かない藩士ら。
激派・静派の抗争が激しくなる。
2月 水戸藩の過激派らが長岡宿に集結。密勅が江戸に行かないように。
高橋多一郎ら脱藩し江戸に向かう。
3月3日 桜田門外の変 (大雪の日)
返納の期限2日前水戸浪士らによる井伊大老の暗殺。
1860(万延元)6月13日61歳:幕府、再度返納を命ずる勅書を下賜してもらう。
8月15日 斉昭、謹慎中の水戸城中で没する。(病死)
1860年8月26日 勅命
戊午の大獄その他、国の為に処罰されて死んだ者の罪は釈免すべし
斉昭、英蟄居が解かれる。
その後、『戊午の密勅』の件は、変や、天狗党等の混乱によりうやむやになり、
勅書は水戸に留めおかれたままになった。
1863年(文久3年)8月会沢正志斎亡くなる。
1864年(元治元年) 藤田小四郎(東湖4男)天狗党結成 64人→ 千人に
1865通商条約の勅許が出る。
お金がないない貧乏水戸藩が、国防の為には大砲も作るし船も作る。内緒で戦いの場、戦う準備も知恵も準備していた・・・。それなのに・・・
大政奉還後に活躍出来なかったのは、奇しくも
斉昭にとってどんなに悲しいことだったろうか?
内緒の異国との戦いに備えた場所とは・・・こちら。
黒船来航から始まる桜田門外の変。
安政の時代・・・全然安心できる政治ではなかった。
どんどん外国人は増えて行くわ、大きな地震が立て続け起こるわ。
外国人が持ち込んだコレラが大流行して何万人も死んでしまうわ・・・
この災難は、誰のせいなのか・・・。 井沢さんの書を参考に解説
青:江戸での出来事 オレンジ:京での出来こと 緑:地方での出来事 灰:災害・その他
時代背景:水戸斉昭は江戸詰&家定病がちなので、牛耳ってます。
1853年 7月 3日 ペリー浦賀に来航!
1854年 3月3日 日米和親条約 ベリーと幕府が勝手に結ぶ。後日天皇に報告。
11月4日 安政の東海地震(M8.4)駿府を含め、静岡大打撃。
11月5日 安政の南海地震(M8.4)紀州藩、宇和島藩、土佐藩大打撃。
1855年 2月 1日 飛騨地震(M6.8)
10月2日 安政の大地震(M7.4)江戸城下大打撃。藤田東湖圧死。
1856年 7月21日 ハリス下田着。日米通商条約を交わしに上陸。
1858年(安政5年)
1月17日 孝明天皇『金で動くではないぞ』と、すでに関白らに手紙。
2月18日 堀田ら、ハリスに60日の猶予を貰い、天皇の勅許を求めて京へ。
3万両を持参して京に上り、関白・太閤らを説得に向かう。
2月26日 飛越地震(M6.7)金沢藩あたりに被害多し。
4月24日 堀田、ハリスに会い7月27日まで延期を求める。
5月 6日 井伊、慶喜擁立派の川路を西丸留守居役に。(左遷)
6月18日 評議「行きずまった時は・・・調印を認める」(井伊)
6月19日 条約調印。後日「速達」(老中奉書)で天皇に事後報告。
(井伊大老の戦略か?天皇を怒らせ堀田らの責任に。一橋派の弱体化を)
6月21日 堀田と松平忠固に登城の停止。
6月22日 井伊、各大名に総登城を命じ、条約調印の布告。
6月23日 井伊、堀田と松平忠固を罷免。
代わりに井伊のイエスマン太田資始・間部詮勝・松平乗全を老中に。
慶喜、登城し、「堀田の責任はOK出した井伊の責任でもある」と批判。
6月24日 松平慶永が出勤前の井伊の家(彦根藩上屋敷)に押しかける。
<おしかけ登城> 斉昭・慶篤・慶勝・慶永
家定は、実母本寿院の意向でほぼ慶福に確定。しかしまだ、慶喜擁立を推し進めた。
6月27日 孝明天皇、「老中奉書」が届き条約調印を知り、激怒!
6月28日 孝明天皇退位宣言する!(内閣解散のようなもので、あわてた九条関白が
幕府側の説明と釈明の使者を呼ぶことで一旦落ち着く。)
7月5日 井伊、斉昭(急度慎)慶篤(兄弟とも登城停止)慶勝・慶永(隠居)に。
御三家らに前代未聞の沙汰。全ては「上様の思し召し・・・」
7日6日 将軍家定(35歳)の病死。京からの使者要求の書が届く。「三家か大老を」
「今大変で、水戸も謹慎だし間部と酒井で堪忍して〜。」
ちょうどその頃、水戸斉昭が処分されたことを知る。大老は俺の意向を無視してやがる!
7月 8日 島津斉彬、薩摩で三千の兵の訓練(クーデター準備)後、発病。
7月 10日 オランダと通商条約調印。
7月 11日 ロシアと通商条約調印。
7月16日 斉彬、回復せず病死。(父による毒殺か?)
(勝手な兵の移動は、武家諸法度違反であり、お家取りつぶしになる。)
7月 18日 イギリスと通商条約調印。
7月 末 コレラの大流行。(江戸だけでも死者3万、とも26万とも)
↓
開国のせいだ!外人を追い出せ!(間違ってはないが・・・)
8月8日付け 戊午の密勅が発送される。
↓
水戸藩京都留守居役 鵜飼知信(60歳を過ぎていたので・・・)
かわりに息子の 鵜飼幸吉
↓
水戸藩江戸屋敷 家老 安島帯刀が受け取る。
このくだりを書く必要がある・・・のだ。
9月 5日 安政の大獄が始まる。
9月 7日 梅田雲浜を捕縛。(証拠書類の押収)
9月10日 梁川星巌を捕縛。(すでにコレラで亡くなっていたが)
証拠書類を押収し、さらに関わった人物が拡大。
9月18日 ★鵜飼父子捕縛。(本来、町奉行所は藩士には手が出せない)
★(鷹司輔煕の腹心)小林民部良典捕縛。
★(三条家の腹心)飯泉喜内捕縛。
日下部伊三次(江戸にて)捕縛。
幕府のねらいは、九条関白追い落としの『最大の黒幕』左大臣近衛忠煕。
その腹心とされる月照と西郷隆盛にも追っ手が・・・
西郷、近衞左大臣より月照を奈良で匿ってくれと頼まれる。
西郷、一度京に戻ってみると、自分も危ないことを知る。
薩摩に戻ることを決意し、大阪から月照と共に馬関(下関)に向かう。
この時のちの騎兵隊のスポンサーになる白石正一郎や野村望東尼などに世話になる。
10月 9日 フランスと通商条約調印。
10月22日 ★橋本左内、江戸で捕縛。
西郷らの人相書が九州まで来ていることを知り、別々に行動。
11月 7日 月照、薩摩入りする。
11月11日 間部の悪事を一ヶ月後に知った、吉田松陰はこの日藩の郡奉行を訪れて、
大砲を借りたいと願い出る。「上洛して、老中間部を打つために!」
ちなみに、毛利家は大江広元の子孫で、代々『元』を受け継いでいるが、遡れば朝廷の臣。
天皇の直臣である。幕府は、天を恐れぬ罪を犯している!無礼を懲らしめなかれば!
11月15日 月照、薩摩藩より追放令が出る。(日向に退去せよ)=出たら殺される。
満月の夜、船上で宴をし二人は入水自殺を図る・・・『月照りが西郷を救う』
12月 西郷は藩籍から削られ、名を菊池源吾として奄美へ配置換えになる。
10月24日 間部、入京して37日後、参内。
「九条辞職も近衞の移譲も幕府は認めていない」と。(幕府の承認が必要)
近衛忠煕は関白を返上。
11月 ★近衞家に仕えていた篤姫の養母村岡73歳が捕縛。(異例)
12月 吉田松陰、野山獄に収監。(倒幕の危険があったため)
12月 孝明天皇「条約の件の疑問については氷解した」との達し。
1859年(安政6年)
4月 一橋派で密勅の「主犯」だから・・・
★右大臣・鷹司輔煕 辞官・落飾→出家に追い込んだ
★三条実万 落飾
このころ雲浜が吉田松蔭と会ったことがあることが判明。松蔭、江戸へ。
7月 ★松蔭、無罪が確定にもかかわらず、評定所で自ら老中討伐を告白。
遠島(無期懲役)となる→井伊により死刑に。
8月27日 ★「主犯」斉昭を国元で英蟄居(終身禁固)
★密勅を最初に受け取った水戸藩家老安島も無罪から井伊により切腹刑。
9月14日 松平忠固急死。
10月27日 松蔭、斬首刑。
12月20日 慶篤、「戊午の密勅」返納。井伊、大いに喜ぶ!安政の大獄の終り。
しかし、水戸藩士達は、大老に屈して天皇の御意志を踏みにじった。
「かくなる上は脱藩して大老を成敗するしかないっ!」と、思うようになる。
1860年(安政7年)
3月 3日 桜田門外の変
堀田さん、不問だったんですねぇ〜。
利休の生涯:信長・秀吉の元で茶の道を極める。
(48歳) 当時、堺は貿易で栄える国際都市で、京の都に匹敵する文化の発信地。
また堺は、戦国期にあって大名に支配されず、会合衆(えごうしゅう)と
よばれる商人が自治を行い、周囲を壕で囲って浪人に警備させる
という、小さな独立国だった。多くの商人は同時に優れた文化人でも
あり、その中の今井宗久というものの誘いにより信長は茶の湯に目覚め
てしまい、利休と同じく紹鴎に習い”名器集め”にも没頭してしまう。
→本能寺の変に影響?(公家達と仲良くなる手段か?)
そんな堺から信長は強制的に名品を買い上げ武力・政治力だけではなく
文化の面でも覇権を目指し、茶会の開催も信長の許可を与えられた家臣
にしか許されなかった。
(49歳) 信長に茶の腕・目利きを買われ、茶頭として雇われる。
(61歳) 6月13日 京都・山崎の妙喜庵で戦況を見守る。勝利の知らせを聞き、
秀吉が陣を敷く宝積寺に赴き、寺へと招いて茶をたてた。宗易は秀吉が
天王山に築城の同時期にこの妙喜庵に茶室(待庵)を建てた。
この待庵は現在もこの妙喜庵にあり、各地に残る利休好みの庭や茶室と
言われる中で唯一現存する茶室で、国宝になっています。
残念ながら、待庵は非公開ですが、近くの歴史資料館に実物大で復元展示されてます。
(64歳) ために居士剛「利休」を勅賜される。
屋敷は晴明神社境内にあり、近くには「晴明井」や白峰神宮の「飛鳥井」「潜龍井」などの名水が近くにある。近所には、黒田官兵衛(この時如水)などが住み、よくお茶会をした。名残に如水町がある。
(70歳) 2月28日 京都に呼び戻され聚楽屋敷内で切腹を命じられる。
屋敷は上杉景勝の軍勢で囲ませ、利休の首は一条戻橋で梟首された。
賜死の一因ともされる大徳寺山門上の木像に踏ませる形でさられたと
言われる。
なぜ、利休は切腹させらせたのか?
今までに伝えられている理由。
①何もしてないのに人気の利休が悔しいから。
②利休の娘に振られたから。
③正論すぎる。疎ましいから。
④大徳寺の利休像が上から秀吉を見下ろしているから。
⑤性格が真反対(絢爛豪華VS質素倹約)だから。
⑥秀吉の秘密を指摘したから。
⑦自分に頭を下げないから。
結局、頭を下げれば許されたと言われているから、せめて、利休が秀吉に頭を下げる態度を常に持っていたら、①から⑥があっても、許せたのだろうにね〜。
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世界最古の”庶民の為”の公立学校 (岡山)
春桜の頃、岡山備前市の閑谷学校に行ってきたにゃ!
この写真に全く桜が写ってないけど・・・(笑)満開です。
閑谷学校は現存する世界最古の庶民のための公立学校(藩校)で、1670年江戸時代前期に、当時の岡山藩主:池田光政(池田家最後の姫路藩主)が設立した。
光政は、江戸初期の三名君と称されるほどで、その政治は質素倹約を旨とした『備前風』と呼ばれ、米どころでありながら、銘酒がなかったのはその為と噂されている。
また光政は、朱子学を嫌って陽明学•心学を藩学とし、1641年から日本初の藩校である北畠教場を開校している。
で、閑谷学校の建設命じられたのは、津田永忠。
永忠は27歳の時池田家の墓の造営の総奉行に任命され、
29歳の時、岡山城を旭川から守るための放水路をつくり、
30歳の時、閑谷学校の建設を任されました。
光政は、未来永劫この学舎が続くように学校用の田んぼ(収入)学校田も用意した。
この頃から、藩の財政を助けるため、新田の開発を進める。
33歳の時、光政の隠居後、閑谷学校の講堂(茅葺屋根)が完成。
47歳の時、後楽園の造園に着手する。
49歳の時、藩主の菩提寺『曹源寺』を造営。
60歳の時、後楽園が完成。
61歳の時、閑谷学校(備前焼の瓦屋根)・石塀が築かれ現在の姿になる。
御納所•椿山が造られ、光政の髪や爪が収められる。
65歳の時、閑谷に隠居し、68歳で亡くなる。
津田さん菩提寺や墓までも任され、今も残される名園後楽園・閑谷学校と建設されて、すごいですね〜。
さらに、閑谷学校のすごいのは、木造建築なのに350年近くも建て替えされずに当時のままってのが、すごい!光政がずっとこの学校が使われることを願ったのを叶えているようだ。
聖廟から。楷の木ごしの講堂
(紅葉の時期には左の楷の木は赤・右の楷の木は黄色になるらしい。見たいな〜)
講堂内
国宝なのに、講堂内を歩ける♪
飲室の炉の縁には炭はいいけど薪はダメって彫ってあったよ。火の用心!
陽が当たる所と、当たらない所の床の劣化の違いを歩いて感じてみれる。
350年、風雨にさらされていながら、木が剃ったりしないのがスゴイ。
右の写真は講堂から学房跡に向かう細道。右が石塀(丸みがあり、半分地下にあるらしい)左が火除山と呼ばれるこんもり綺麗な古墳のような造り)
学房跡から火除山の写真。このあたりと駐車場は桜が満開。
椿山・御納所
椿山が素敵でした。400本近いヤブツバキが植えられていて、その先にこんもりした御納所が見えます。新春ころに来て、たくさんの椿の下でボーっとしたいですね。
木のコブが、サルに見えると言われている椿。探してみてください。
サルの名前は『申申』だったような。(笑)
↓学校案内図 おすすめの季節
椿の咲く頃(椿山•資料館)・桜の咲く頃(学房跡)・楷の木の紅葉の頃(聖廟)
赤穂城 (No.60)
赤穂城の築城は早く、もとは赤松氏の一族の岡宏光という人物が始まりとされ、当時加里屋城と呼ばれた。
その後、赤穂は宇喜多領となり、1600年姫路藩主の弟池田長政が赤穂に入り、赤穂城の前身とされる大鷹城を築城する。
赤穂藩池田家の変遷とお城
4代とも、短い城主期間であり、4代目の輝興の時代に日本初の水道工事が始まったとされていて、赤穂城でも展示の目玉の一つになっていた。しかし、この輝興。何があったのか?妻の亀子姫(黒田長政の三女)に向かって発狂し、妻と侍女数人を斬り殺す事件が起こしたため改易となり、ここで池田家による赤穂藩は幕を閉じる。
赤穂藩浅野家の変遷
池田輝興の改易処分の際に、幕命により赤穂に出向いたのが浅野長直。長直は
そのまま国替え、藩主を命じられたという。それから、55年後の事件。孫によってこんなにも有名な藩になるとは、思ってもいなかっただろう。
↑大石神社内の物語絵図の一部 江戸東京博物館の実物大の松の廊下↑
↓江戸東京博物館の江戸城ジオラマの松の廊下部分。
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/(江戸東京博物館HP)
東京両国周辺には、赤穂浪士のゆかりの地や歴史が学べる場所がいっぱいある。
特に江戸東京博物館は松の廊下の実物大の前を歩けるので、赤穂浪士ごっこで遊びたい!近くにある吉良邸跡や討ち入り後集合場所だった回向院(鼠小僧や勧進相撲でも有名)。血だらけの浪士達は入山を拒否された為、主君の墓のある泉岳寺(高輪)に向かったと言われている。詳しくは赤穂浪士編で。
庭園から、門の方をパチリ。上の図でいうと、↓の方向。小さい丸(現在地)があるあたりに、日本初の水道管が通っていたとされる跡がある。足元注意!
堀の周りは海がもっと近くにあって、海上にも向けた珍しいお城だったそうだ。
12/14は、赤穂城がもっとも盛り上がる日‼︎『赤穂義士祭』が行われる。
この日の前後には、夜、電飾の天守閣が現れる。また、明治〜昭和の間ここは、赤穂高校の敷地として使われていたとか。
お堀の上の飛行機雲がとっても綺麗だった。
お城と大石神社の間には、山鹿素行先生の銅像があります。浅野長直が、大金を払って江戸から呼んだ兵学・儒教の先生。大石内蔵助も学んだと言われます。
では、隣の大石神社へ
しち・はち・九度山〜(真田庵を訪ねる)
(南海電鉄HPより)
和歌山の観光マップ→
関ヶ原の戦いで西軍についた真田昌幸と幸村は、兄信之のおかげで高野山に蟄居となりました。14年も過ごしたという九度山(和歌山県)。
真田はどのようにココですごしたのでしょう?真田ミュージアムで勉強です。
上記マップ❸真田ミュージアムから。
ミュージアムに入ると、いきなり真田三代(昌幸・幸村・大助)と写真を撮ってもらえます!掛け声は『しち・はち・くどやま〜♪』です。吹き出さないように!
館内は充実した内容で、見応えあります。
下の写真のように、忍者屋敷のような真田庵を再現した展示も見モノです。
伝説の真田十勇士の話が語られるのも納得できます。
蟄居の身で、ここまでまだ再び機会が訪れるのを待っているのには感服致します。
大河ドラマ館ならではの、ワクワクする展示ブースもあります。
こうやって、一つ一つ丁寧に製作して行くんですね〜。こんな仕事も楽しそう!
男性のトイレマークも可愛い!
上記マップ❶の真田庵へ
ミュージアムで、真田の物語を勉強したら、実際に町を見て回ります。
昌幸は無念な中1611年6月4日ココで亡くなります(享年65歳)。ここでの暮らしは大変苦しかったようで、兄信之や高野山の蓮華定院からの援助に頼っていたそうです。で、なぜ九度山に住んでいたかというと・・・高野山は女人禁制。信之の宿坊:蓮華定院に入るも、妻子との生活が許されたため妻達が来るならと九度山に屋敷を用意してもらい下山(山の麓まで当時は高野山領地)。
真田は地元の人にとても愛されたそうで、真田紐のおかげで生活の足しに出来た家もおおかったのでしょう。幸村はココで四人の子供を授かります。境内には大きな石を載せている井戸がありこれを「雷封じの井」と呼ばれ、幸村が屋敷に落ちた雷を井戸に封じ込め人々の難を救ったとの伝説がある。石の形からして、ここも抜け穴なんじゃない?
お隣のそば処幸村庵も真田ゆかりの上田で修行された職人だそうで、美味しいと人気のようです。ゆったり九度山の四季を感じながらススルそばは美味しさにプラスされること間違い無し。
真田地主大権現
真田三代の御霊を真田庵の守護神として祀っている。知恵の神様として鎮座。
父昌幸が亡くなって3年、幸村の元に大阪城から使者がやってきます。
幸村は、祭りを催し町民全員に酒を振舞います。町民全員幸村との別れの時が来たのだと分かりながら、涙をこらえ酔いつぶれたふりをして、幸村を見逃します。幸村も町民に咎めがないように酒を振る舞ったようです。やさしい〜。
上記マップ❷の真田古墳へ
なぜ古墳と呼んでいるのか?ほんとに古墳時代のものだかららしい。それを活用したのか真田の抜け穴と言われる穴。ほんと、真田家って忍者みたい。幸村はこの抜け穴を使って大阪に出向いたとか。
上記マップ❹の慈尊院へ
大阪側から高野山に登る時の入り口にあたる「慈尊院」とその奥「丹生官省符神社」。
門から見える大塔は、高野山の根本大塔と同じ。サイズは半分くらいかな?
ここは空海の母君の御寺として知られ「女人高野」女性の為の御寺として親しまれ、「子宝・安産・育児・・・など」近年は乳がん祈願が多いとか。
上記マップ❺の丹生官省符神社へ
地元の神を祀った神社で、神様の使いである白黒2頭の犬が空海を高野山に導いたと言われる。
上記マップ❻の町石道
何時代でしょうか?道の駅に高野山に登る風景です。黄色い袈裟のお坊さんもいますね。まさかの空海さんでしょうか?
真田紐
唯一の収入源?真田紐。真田紐は甲冑・刀の下げ緒・帯締
めなどに利用され、堺や泉大津の行商人を通じて真田は
諸国の動静を注視してたとされています。官兵衛の時の
目薬と同じだね。
この真田紐は伸びにくく丈夫であることから利休は茶道具
の木箱の紐を革紐から真田紐に変えたそうだ。細い分、
織るのに時間かかりそうだね〜。真ん中の紐が真田紐。
道の駅柿の郷くどやまは、かなり充実してます。ここに車を止めて回るのが
オススメです。さすが和歌山。柑橘系も豊富に販売してます。
学文路(かむろ)の焼もち。
学文路は、高野山を下る車道にある場所
ですが、そこで有名な焼きもち。
もちろん、道の駅でも買えます。
高野山のおやつは、全般的に甘くなくて
さっぱりしています。
なので、いくらでも食べれちゃいます。
食べ過ぎに注意です!
長栄堂
- 0736-32-4130
麩善の麩餅
ヨモギの入った生麩の中に、これまたあっさりあんこ。
1個140円。これは道の駅にはなかったかな〜。店舗以外なら、西利で食べれましたよ。これも何個でも食べれる。
麩善
柿パン(パーシモン)
この柿が入ったパンは、騙されたと思っても買う価値あり!
老舗ではないけど、美味しくて紹介したくなっちゃう。富有柿が名産の九度山ならでは
柿が杏子などと違って甘くなく、レーズンとクルミが引き立てています!
是非、帰りに買って帰りましょう!
道の駅 柿の郷くどやま
- 0736-54-9966
- 9:00~18:30
正月のみ トイレと駐車場は24時間利用可
柿の葉寿司
九度山一帯も日本一の富有柿の産地と言われるほどの秋は柿色一色の町。紀ノ川流域では、民間薬と知られている柿の葉で鯖を包んだ寿司で、和歌山のラーメン屋さんでは、ラーメンと柿の葉寿司を食べる光景を何度か見たことがあります。基本、緑の柿の葉で包まれていることが多いですが、最近は、カラフルな紅葉をイメージした 葉や、もう少し茶色の渋い柿の葉で包んでいる老舗もあります。昔ながらなんだろうなぁ〜。
店によって、酸味が違うのでお気に入りを見つけてみては?
胡麻豆腐
胡麻豆腐食べ比べにも記載している鈴木食品。
これも、道の駅にある。生でなければ、その他の
お店の胡麻豆腐も置いているはず。
高野豆腐も有名ですよね。最近は粉タイプが人気だそうです。
空海の生涯と高野山のその後。
の学問を理解することが出来ると教えられ、阿波の大滝岳・
土佐の室戸岬・高野山他にて修行する。このころの空海の足跡を
辿って、弟子たちが巡ったのが「四国八十八ヶ所」お遍路の原型
となる。
5月12日唐に留学(遣唐使)同じ遣唐使の最澄は、15歳。
7月 6日肥前国田浦を出発。
8月10日赤岸鎮に漂着。海賊と間違われる。
10月 頃 空海の文を読み福州から唐に上陸許可が下りる。
12月23日長安に至る。翌日工程に接見する。
6月 三昧耶戒、受明灌頂、胎蔵の灌頂を受ける。
7月 金剛界灌頂(かんじょう:戒律や資格を授けて継承者と
する儀式)を受く。
8月 伝法灌頂を受け、遍照金剛の灌頂名を受け、真言密教
第八祖の位に就く。
12月 恵果和尚、青龍寺にて入寂す。
留学期間を早く切り上げすぎた為、闕期(けっき)の罪に問われ
る。長期滞在予定の留学生は、次の遣唐使(20年後)まで帰える
ことが許されなかった。
10月 帰国。『御請来目録』を進献する。
「これだけの物を持ち帰って、新たな知識を早く日本に持ち帰り
たかった」と弁明するが、時の平城天皇が仏教に興味を持たなか
ったせいか3年太宰府・和泉に留め置かれる。
和泉国から平安京に入住する。このころから天台宗最澄、弟子を
空海のもとに遣わし、密教経典12部の借覧を請うなど交流がさ
かん。(最澄は漢語は出来なかったらしい)
造営料現米1万石、白銀3千枚を寄進する。
:
戦国時代を渡り歩いた三大茶器(天下三肩衡)のゆくえ。
堺商人から「名器狩り」と恐れられた信長は、すでに50個以上のの自慢の茶道具を持っていた。しかし、三大名器の残り一つの「ならしば」。これは、博多の豪商:島井宗室の元にある。その宗室が6月2日迄、京に居ると言う知らせが信長の元に!
信長は、本来なら軍の準備に日を要し出発は6月5日頃を予定していた中国行きを一週間早め、軍を持たず少ない供と自慢の茶道具を持って京都に入った。
そして本能寺の変の前日。本能寺において公家たちを集めて茶会を開いた。
どうしても、「楢柴」が欲しかったからだ・・・。
この茶会で、宗室と商売の保護とを交換条件に約束を交わす。(コンプリート間近!)
しか〜し!叶わず。
でも、テレビでよく見る本能寺の変。燃えてるよね〜。なんで、見事に無事なん?
「新田」は大阪の陣で割れたり・黒くなっちゃったりしたらしいけど・・・。
この事件、この茶会、堺の商人が関わっているとかも言われている。
この時、利休は家康をもてなすために堺にいた。
戦国武将をも魅了した三大名器(年表)
茶道をしていない人にとって、ただの壺だと思うけど・・・。
これで、国が買える。数億円の価値があるらしい。わかんな〜い。
でも、大阪の陣で褒美にこの名器「初花」を貰った忠直は、正直こんなん
うれしくね〜よと怒ったとか。(笑)わかる〜。
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正岡子規:野球が好き過ぎて野球殿堂入り!
こちらの年表のとおり、子規は明治17年の予備門時代にベースボールと出会い、熱中しました。守備は捕手だったそうですが・・・掛け声とか小さそうっ〜!
22年7月に、松山に帰省した時、バットとボールを持ち帰り松山中学の生徒らにベースボールを教えたと言われていて、この3年後、松山中学に野球部が創設された。
子規が創設に関わったと言われている。
23年2月『筆まかせ』に「野球」と雅号を付け、幼名の升(のぼる)をもじって、のぼーると読ませている。これはまだ、ベースボールが野球と翻訳されてない時期。
野球と翻訳されたのはこの4年後の明治27年。この偶然に、子規が喜んぶ顔が浮かんでくるようだ!
29年に「日本」新聞に連載された随筆の中では野球のルール、用具、方法などについて詳しく解説している。野球を読んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介した。
「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」
「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」
「まり投げて見たき広場や春の草 」
「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」
野球が好き過ぎて、喀血により野球が出来なくなっても、バットを筆に変えても常に野球のことを思う子規。野球用語の翻訳案も創作・提示していたという。
これらのことが、野球の普及に多大な貢献をしたと言われている。
2002年 新世紀特別表彰者 正岡子規
子規の一生:語り合う交友関係。
子規は、生まれてから亡くなるまで、沢山の人に助けられ短い生涯ながらも、
沢山の人に影響を与えた人物です。寝込んでいても尚且つ人々が子規に集まるのはあ
どんな魅力からなのでしょうか。
■仕事・生活の恩人:陸羯南(日本新聞社長)
■心の友:秋山真之(幼馴染:海兵軍人)
: 夏目漱石(学友:小説家・英文学者)
■家族・親戚の協力:母(八重)・妹(律)・後見人(加藤恒忠:政治家)
■弟子たち:河東碧悟桐・高浜虚子ほか
(子規庵のパンフレットより)
こんなにも、子規庵にはたくさんの人が訪れ勉強会をしていたようです。子規の求心力はすごいですね〜。
そこで、主な人物との出会い、エピソードを簡単に年表に加えてみました。
いろんな人と手紙や文通も多くて、やっぱり、筆まめですね〜。
心の友の漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えで、「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つだったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けたのだそうだ。
子規のペンネームは、野球(のぼ〜る)を含め、50個以上あったみたい。
羽二重団子の記載があるのは、「仰臥漫録」。
この頃に、団子4本食べるってことは、胃は丈夫だなぁ〜。団子はこちら。
文豪の愛した羽二重団子(日暮里)
数々の文学作品にも芋坂の團子(吾輩は猫である・松の葉:泉鏡花)・藤木茶屋と呼ばれて…(坂の上の雲:司馬遼太郎)・・・文学作品に芋坂の團子とあれば、この店の事で間違いない。くらいの人気・有名団子屋である。
しかも、病床で家から出ない正岡子規はこの近くに住んでおり(子規庵)、間食に
「あん付き三本焼一本を食う」と日記に書いている。元気な食べっぷりだ!
いや、元気ではないはず・・・それだけ美味いのだろう!
食べずにはいられない。
『子規セット』なるものもある。
もちろん、あんこ3本・焼き1本だ。(笑)
↓晩御飯前だったので、一本ずつ。たしかにきめ細かいあんがさっぱりしている。
けど、以外にも焼きが美味しくて、餡の方より好みに感じた。多分歩き疲れて、
甘みより塩を求めてたのかも知れない。しかし、文豪は甘党だね〜。
↓羽二重団子のHPより抜粋
文学作品と当店
夏目 漱石著
正岡 子規著
「道潅山」より
・初出 新聞「日本」 明治32年10月2日
・正岡子規全集第13巻 講談社刊 昭和51年
こゝに石橋ありて芋坂團子の店あり。繁昌いつに變わらず。店の内には十人ばかり腰掛けて喰ひ居り。店の外には女二人彳みて團子の出來るを待つ。根岸に琴の鳴らぬ日はありとも此店に人の待たぬ時はあらじ。戯れに俚歌を作る。
根岸名物芋坂團子賣りきれ申候の笹の雪
「仰臥漫録」より
・全集の他 岩波文庫緑13-5所載
九月四日 朝曇 後晴
昨夜はよく眠る
新聞『日本』『二六』『京華』『大阪毎日』を読む例の如し 『海南新聞』
は前日の分翌日の夕刻に届くを例とす
朝:
雑炊三椀 佃煮 梅干
牛乳一合(ココア入り) 菓子パン二個
昼:
鰹のさしみ 粥三椀 みそ汁 佃煮 梨二つ
葡萄酒一杯(これは食事の例なり 前日日記にぬかす)
間食:
芋坂團子を買来らしむ(これに付悶着あり)
あん付三本焼一本を食ふ 麦湯一杯
「寒山落木巻三」「俳句稿巻一」より
・全集の他 岩波文庫緑65「子規句集」所載
岩波文庫緑13-3「子規歌集」所載
芋阪に名物の團子あり
芋阪も團子も月のゆかりかな
根岸名所ノ内
芋阪の團子屋寝たりけふの月
元光院観月会
芋阪の團子の起り尋ねけり
名物や月の根岸の串團子
秋昔三十年の團子店
短歌会第四会
芋阪の團子売る店にぎわひて團子くふ人團子もむ人
泉 鏡花著
田山 花袋著
「東京の近郊」より
・実業の日本社刊 大正5年
昔からきこえた團子屋である。其處ももうあるかないかわからない新しい流行の力に蹴落されて、もうとうになくなって了ってるかと思って行って見ると、不思議にもそれが依然として残っていた、私は入って行った。
-中略-
私は醤油團子を食ひながら、昔のことなどを思った。上野の図書館から天王寺の墓越しに午飯代わりに此處によく團子を食ひに来たことなどを思い出していた。根岸に友達がゐて其處に行くと、よくこの團子を出してくれたことなどをも思ひ出した。團子は依然として旨かった。
久保田 万太郎著
船橋 聖一著
「墨田川物狂ひ」より
・新潮社刊 昭和26年
また、お稻さんが、わたしびいきであった。そっと、芋坂のお團子や、甘納豆、菊見せんべいなぞ、を持ってきては、わたしに食べろと言った。そして、>
「こゝで。お上がりなさい。奥へ見つかると、大變だから」>
と言って、わたしの食べ終わるのを、見届ける様にした。