歴猫の八兵衛・放浪記  飼い主の影響で旅するにゃ

ご主人様が歴史が好きで、付いてくうちに、楽しくなってきたにゃ!みんなも一緒に歴史の旅にでるにゃ〜♪

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■■■平安時代■■■

 794年 桓武天皇平安京遷都。

 797年 坂上田村麻呂征夷大将軍に任命。

 810年 蔵人所設置。藤原薬子の乱。

 814年 嵯峨天皇の皇子・皇女源姓を与う(源氏賜姓の初め)

 816年 検非違使設置。

      荘園広がる。

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 857年 右大臣藤原良房太政大臣となる。

 866年 藤原良房、摂政となる。応天門の乱。

 872年 良房死去。(69歳)藤原基経、摂政となる。

 873年 清和天皇、皇子・皇女に源姓を与う(清和源氏

 887年 基経、関白の詔を受く。(関白の初め)

 889年 桓武天皇の曽孫高望王に平姓を与う。(桓武平氏

 899年 宇多上皇、剃髪出家(法皇の初め)

 901年 右大臣菅原道真太宰府に左遷。

 902年 初の荘園整理令。

 935年 平将門の乱起こる。

 939年 藤原純友の乱おこる。

 967年 藤原実頼関白就任(以後摂関を常設)

 968年 東大寺興福寺の両寺乱闘。

 969年 安和の変藤原氏の他氏排斥完了。

 990年 女御藤原定子(道隆の娘)一条天皇の中宮となる。

 995年 藤原道隆(43歳)死去。藤原道長(准摂政)を命じられる。

1000年 定子、皇后となる。彰子(道長の娘)一条天皇の中宮になる。

     (皇后・中宮並立の初め)興福寺の僧徒の乱暴を禁ず。

      清少納言枕草子:定子に仕える)・紫式部源氏物語:彰子に仕える)

1016年 道長、摂政となる。(藤原氏全盛)

1017年 藤原頼道、摂政に。道長太政大臣になる。

1018年 道長の娘威子、後一条天皇の中宮となる。

1019年 刀伊(女真人)の入寇。

1027年 道真死去(62歳)。

1028年 平忠常の乱。

1035年 円城寺・延暦寺の僧争う。

1040年 長久の荘園整理令。

1051年 前九年の戦い。

1055年 延久の荘園整理令。

1083年 後三年の戦い起こる。

1086年 白河上皇院政を始める。

1093年 興福寺僧徒、春日大社神木を奉じて入京し強訴。

1095年 延暦寺僧徒、日吉大社神輿を奉じて入京し強訴。

      白河上皇、北面の武士を置く。

1098年 源義家、院昇殿を許される。

      僧兵の争い激化・二毛作始まる。

1156年 保元の乱

1159年 平治の乱

1160年 源頼朝伊豆配流。(14歳)平清盛、公卿に列する。

1167年 平清盛太政大臣となり平氏全盛に向かう。

1173年 清盛、摂津に経島を築き日宋貿易開始。

1180年 以仁王源頼政平氏追討の挙兵。宇治で敗北。

      平氏の福原遷都。源頼朝、伊豆に挙兵。石橋山の戦いに破れる。

      源義仲、木曽に挙兵。

      頼朝、鎌倉に入る。富士川の戦いに源氏勝利。

1181年 平清盛死去(64歳)

1183年 平氏天皇・神器を奉じ西国へ逃れ義仲入京。

      源頼朝の東国支配公認。

1184年 一ノ谷の戦い。                       

1185年 義経屋島の戦い壇ノ浦の戦いに勝利し、平氏滅亡。

 

平均年齢100歳!?(天皇1代〜28代まで)

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↑もう何言っているかワカンナイ。これは、神武天皇が統一を決心をした時の話。
天孫降臨のくだりを知りたければこちら→天孫降臨・図解付き♪
簡単に言えば、高千穂宮(九州)にいた神武天皇が、天から祖父ニニギが降りてきてから180万年経ったけど、全国を征服してないから、征服しに行こう‼︎って45歳で思ったって話。で、5年くらいで征服して、天皇って名乗ってからの一覧だよ。

           ※見ての通り、平均年齢100歳だし、ほんまかどうか怪しすぎる所いっぱいなので
            思想が偏らないようにウキペディアを参照にしました。

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崇神天皇の時代に、疫病がはやり、疫病を鎮めるべく従来宮中に祀られていた天照大神倭大国魂神を皇居の外に移すため、豊鍬入姫命に良き移転場所を探させた。のち、
倭姫宮が後を継ぎ、伊勢に移すことが決まった。

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 21代の雄略天皇の時、夢の中で天照大御神の教えをお受けになられ、豊受大御神丹波(たんば)の国から、内宮にほど近い山田の原にお迎えされました。今から1500年前のことです。※伊勢神宮HPより抜粋(内宮の500年後)

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欽明天皇推古天皇のお父さん。そろそろ、現実みが帯びてくる時代。
だけど、『日本書紀』が書かれたのはまだまだ先のこと。 
続きは、こちら。

天孫降臨?初代天皇が誕生する前のお話。

天孫降臨の話は、『日本書紀』の中にある。
日本書紀』が編纂され始めたのは天武天皇の時代。
戦いに勝った者が歴史書を書く時、絶対的に自分が優位になるように書くよね。もしくは、過去を変えたい時とかに言い切ってかいちゃうよね〜。私の血筋は・・・って。
秀吉も、家康もやってたにゃ。
 

 この頃だって、そうなはず。ただ、古すぎて・・・確証がないにゃ。
 まっ、そこが歴史の面白いところなんだけどね。想像出来て。

だけど、『日本書紀』は何を残したかったのかってとこ。

天武天皇が書かせた書物なのに、天武天皇の誕生日がわからない。
  天智天皇の弟ではない説
②誕生が書けないといのは、天武天皇は皇族でもはなく、有力な豪族説

持統天皇が孫に引き継ぐのに正当化する説(天孫降臨=孫に引き継ぐ話)f:id:quucyan:20151015105538p:plain


などと言われているけど、これを読んで神々のことを理解すると『日本書紀』で、言いたい事や、みじかに祀られている神々の事がわかって楽しいにゃ。
だから、とりあえず、神話(日本書紀)にあえて乗っかってやろう!

何が本当なのか、自分で想像してみて〜❤️

さっそく〜。

イザナミイザナギの産んだ神様は、たっくさんいるけれど、今回は天皇誕生となった天孫降臨に関係する神様のみ図にしてみたにゃ。わっかるかな〜?

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ほんまびっくりの家系や。奥さんがサメやったり、火の中でのお産て。
ワタツミも優しいにゃ〜。
娘が悲しい思いして実家に帰ってるのに、
娘を悲しませた婿殿に授けた能力とりあげにゃいなんて〜。

 

それにしても、神様の名前って難しいよね。
カムヤマトイワレヒコ・・・。

これをヘブライ語で読むと解釈できるって噂があるにゃ〜。すごくない〜‼︎

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とりあえず、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が45歳で全国を統治するために東の国にたびだったんんだね〜。

この続きは、天皇 1代へ。→まだまだ神話っぽい時代が続くよ♪

 

 

 

 

伊勢街道(津宿〜伊勢神宮)を歩く。

伊勢参り   f:id:quucyan:20151201215343p:plain

 伊勢の御師達は、全国に布教と伊勢参りしやすいように整備をしたと言います。
例えば・・・。

f:id:quucyan:20151015104214p:plain   ・伊勢参りに行くというと許される。
   ・お金が無くても行きやすくする。
   ・伊勢講:みんなでお金を集め代表者が行く。
   ・道中の整備。

その効果もあって、江戸時代伊勢参りが盛んになりました。
しかし、明治になって御師が廃止されると、次第に伊勢に通う人はいなくなりました。
そんな、人々が惹きつけられたお伊勢さんをやっと歩けるにゃ〜♪

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伊勢物語』読んだけどぜんぜん理解できなくて、もひとつ読んでみた。
東海道中膝栗毛』って、十返舎一九が書いた道中記があるにゃよ。

弥次さん・北さんが江戸から伊勢に参る道中の笑い話を書いた作品にゃけど、
膝栗毛ってのは、自分の膝を馬(栗毛)のように歩かせるってことみたい。
おりゃは、膝栗毛か?猫栗毛か?
ま、ご主人と津ってとこから、歩くにゃるよ〜。約70㎞やって〜。なが〜い散歩。

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1日目:津宿〜松坂城
しゅっぱ〜つ! 津は、うなぎが有名らしい。現在は餃子だって〜。
おりゃは、うなぎ食べたいにゃ・・・。弥次さんたちは、こんにゃく食べたって書いてたな〜。街道らしき感じが、全く失せている。匂いがしないにゃ。
やっぱ、江戸橋からにすれば良かった〜。
観音寺が見えてやっとホッとする。はし屋で、うなぎ食べよう!
食べ過ぎると、歩けないので、半分だけって怒られちゃった。(くすん)さあ、再開!
街道の1里は約4㎞で、ちょうど1時間で歩ける距離。昔の人と同じスピードと思うとチトうれしいにゃ。
雲津宿あたりからか、街道らしくなり、昔ながらのお家がずらっと
景観よく並んでいる。京都のように、間口より奥行きがある家の造りで、生垣が
槇という木で作られていて、とても立派に見えるにゃ〜。素敵❤️
これは、紀州藩の名残らしい。そうなのか〜。                

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松坂宿に入ると、牛銀の案内がいっぱいだ〜!そそられる〜♪まっつさかぎゅうぅ〜♪
坂城武家屋敷が凄いらしいので、寄ってみた。

今も住まれてる方に貴重なおなはしを聞けたので→詳しくはこちら。
金・銀(和田金・牛銀)はこんな格好では行けないので、「一升びん」で松坂牛❤️

2日目:松坂〜外宮

少し街道を引き返して、三井本家の屋敷跡から出発!
松坂は、秀吉の時代に近江商人が移り住んだようで、松坂も豪商の町として
とても繁栄していたようだ。特産物は木綿だったらしい。→松坂商人

大伯皇女が愛しい弟の大津皇子と離れて、斎宮(巫女)として住んだ場所を偲びながら通過。弟も姉に会いたくて、死ぬ間際も此処に来たらしい。
            →ややこしい関係は天武時代の年表をご参照あれ

やっとこさ、当時からの餅屋「へんば餅」に到着。一服するにゃ。↓
あと、もう一息。外宮に近づくと、街道らしさは少し薄れてくるけど、現在の観光の為のうどん屋や広い道路が増えてくる。月夜見宮が見えたらもう外宮の鳥居だ!そろそろ、急がねば!

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なんとか満潮までの時間に間に合った。→詳しい伊勢神宮
(潮の満ち引きに合わせた参拝時間があるらしい。今回はそれを採用。)
せんぐう館は是非観てほしいにゃ。こんなことも?あんなことも?神様の1日・1年の過ごされ方がわかる。
おやつ?お昼?に伊勢うどん。胃に優しいからつるっと入って助かります。
旭湯さんの潮風呂で清めて今夜はおやすみ〜。

3日目:外宮〜内宮

外宮からの道を古市街道ともいうらしい。現在では伊勢市駅を利用する人が多いけど、江戸・明治は隣の宇治山田を利用していんだって。タクシーの運転手も、お金もちの方は宇治山田を利用するのがステータスだと。皇族の方も今も、宇治山田を利用している模様。なぜなら、この山田には、当時御師と言われる、全国に伊勢講を広める役の営業マンが、全国から到着した講親をもてなす場所(振る舞いの馳走)宿があったところだそう。

そこでは、「到着祝の酒、鯛の煮物・大海老二つ、菜のひたし、吸物」翌朝は「にしん、あわび、芝海老、豆腐さいの目の汁」昼は「膳に吸物、大皿にはアワビとぼら、御神酒」夜の宴は「膳が四つに吸物が五種、酒四升」。そして仕上に古市。古市は江戸吉原、京島原と並ぶ花街、それこそ一生に一度の命の洗濯をしたらしいにゃ。「参宮客の精進落とし」として此処でも弥次さんたちも遊郭に行きたくてしょうがない話が描かれています。憎めない人たちだにゃ。

古市花街のふもとの藤屋に泊まったとありますが、今は麻吉旅館のみが残っています。
伊勢歌舞伎・伊勢音頭も有名で都をどりの亀の子踊り(伊勢音頭)を参考にしたと言われるほど、芸も盛んでした。内宮の中にも御師の宿があったそうです。(橋の横)
そんな古市ですが、今のこる景観としては麻吉旅館が唯一でしたが、カッコイイかった〜。

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遊郭の雰囲気少なすぎて、トホホと歩いていると、猿田彦神社に到着!
みちひらきの神にしっかりと、自分にあった、みちひらきをお願いして「お砂」を購入。
残るは、内宮と月読宮へ。→詳しい伊勢神宮
朝熊山に行かぬは、片詣り」と言われる朝熊山に行くつもりでしたが、時間と天候の都合で片詣りとなりました。

宝くじ

私の歴史・あなたの歴史が、ここで動くかも?
ここまで来て、宝くじかよっ!ってご主人に怒られた。一番熱心に祈ります。(笑) 

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こんにゃく
こんにゃくが有名らしく、津宿で接待された弥次さん達も、お膳のこんにゃくと石にびっくりするくだりがあります。当時、こんにゃくをお膳の焼き石でチョイと焼いて、食べると、こんにゃくの臭みと水気がうまいこと引いて美味しく食べれたそうです。探しましたが、今はこの食べ方ないみたいですね。
(工程により臭みが取れたのかも知れませんね。)

うなぎ はやし屋

軽くて香ばしいうな重です。タレのおかげか、ご飯のおかげか、
名古屋の鰻よりさっぱりしていて、香ばし軽いって感じ。歩きながら消化しないといけないおりゃ達にとっては、言うことなし!いっぱい食いてぇ〜!

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伊勢うどん

お気に入りは、おかげ横丁の焼きうどん。外宮のおでんうどん。
でも、どこのも美味しい。二つは変わった食べ方やからあえて紹介するにゃ。
お父さん・お母さん・じいちゃん・ばあちゃんへの土産はコレかってあげてな〜。

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へんば餅

f:id:quucyan:20151126075803p:plain 伊勢街道の後半、もう少しで外宮に入るというところにあるお店。(おかげ横丁にもあります。)

2個で160円。二つ折りの形のさわ餅もあります。

   餅街道と呼ばれていた、伊勢街道を津から歩いて現在唯一の街道沿いの茶屋餅。伊勢神宮についた時と同じくらいの感動があったゃ〜。

                    

二軒茶屋

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昔からのお店は、少し外れにあり行きずらいですが、最近おかげ横丁・外宮前にもお店が出来てました!あっさりとしたきなこ味。形が、小判形というか、かわいい形で3つで230円だったかな?ぺろっと食べられちゃいます。

赤福

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 関西人ならどこでもいつでも食べれるけど、どうしてこんなに並んでいるのか?でも、並んでしまうお店。
お土産用も、駅で並ばす買えるのにここで長蛇の列に。(笑)
 夏のかき氷と冬のぜんざい。また、毎月1日にしか販売しない朔日餅は、4時半くらいから並ぶ縁起物の人気商品!是非、食べてみて〜。
あ、でも関西の人なら予約で百貨店で買えるよ〜。こちらも長蛇の列だけどね。
創業は、不明だが、浮世草子の一文に赤福とあることから、江戸中期ににはあったとされ、1707年を創業の年としている。

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みんなが欲しがる征夷大将軍の地位 ‼︎

征夷大将軍って良く聞くけど・・・どんな地位なの?

「征夷」とは東の夷(異民族)の意味で、蝦夷(東北地方)征伐の最高司令官ってことで、戦場での天皇の代理人との意で、天皇による任命。

なので、西や北も担当の将軍が置かれたみたい。
西:九州方面・・・征西将軍(鎮西将軍)
北:日本海側・・・征将軍(鎮将軍)

 

歴代の征夷大将軍は、720年からで、坂上田村麻呂藤原忠文平将門の乱鎮定)・源義仲清和源氏源頼朝討伐の名目)源頼朝清和源氏)ら征夷大将軍についた。
源頼朝鎌倉幕府を開いてからは、武家政治を行い、武士の棟梁という意味合いが大きくなった。

源頼朝以後、征夷大将軍は、(清和)源氏の一族しかなれないとなったとか・・・。
その為、信長(平氏)も秀吉(百姓)も征夷大将軍になれなかったと言われるが、あえてならなかったという説もあるが、家康はわざわざ源氏となり征夷大将軍ついたとされることから、源氏の一族しかなれないと言われるのかもしれない。
ただ、家康は、かなり頼朝を崇拝し、「吾妻鏡」を熟読していたらしい。

 

征夷大将軍は、みんな幕府を開けるの?

征夷大将軍は、臨時の軍政を行う権利があったので、この軍政を行う臨時組織が幕府であり、そのトップが征夷大将軍だったってこと。
つまり幕府とは非常事態において政治を行う臨時の役所ということだね。
役所といっても、今でいう会議室・応接間。
鎌倉時代には、この非常事態が日常化してしまった。これが、鎌倉幕府である。
なので、「今日から鎌倉幕府開始だよ!」って言ったわけでないから、全国的に守護地頭を置いた1185年や頼朝が征夷大将軍に就いた1192年などといろいろ解釈があるみたい。

「今、日本は戦争で非常事態だから、貴族に変わって武士が臨時に政治を行う」

     ↓
「貴族に変わって、武士が臨時に政治を行う」
     ↓

天皇の命により、政治を行なう者」

という意味のようになって、     f:id:quucyan:20151015105538p:plain

江戸になると本来の意味が薄まって征夷大将軍=武士の棟梁というイメージが完全に出来上がってしまってるよね。

これは、貴族が武力を持たなくなってから、結果誰か(武士)に助けてもらわなければならないことに起因すると思う。
これが進むと・・・・

     ↓
尊皇攘夷」聞いたことある言葉・・・。

  王を尊び、夷を攘う(はらう)
今度は、征夷大将軍が夷(異民)となる現象が起きるのです。おもしろいですね。
詳しくは、幕末で。

 

征夷大将軍になれなかった、清和源氏の武将は?

今川義元嫡流)・武田信玄(傍流) 

 嫡流の方がもちろん本家と言われて格が高いが、どちらも征夷大将軍にはなれる。
信玄がなっていたら・・・どんな政治が行われていたのだろうか?

 

◆三代で終わりかけた鎌倉幕府

征夷大将軍が5年で頼朝・頼家・実朝と亡くなり(幽閉・暗殺等により)北条が実権をにぎることとった。
が、もともと北条氏は、平氏の血を引く豪族で、『源氏の長者』ではないため五摂家の一つである貴族の名家・九条家や、天皇の子、という古くからの由緒ある血筋の人に、形式的に『源氏の長者』の跡取りになって貰って、幕府を存続させたといわれる。
詳しくはまた。

■■■鎌倉年表■■■

1185年 義経屋島の戦い壇ノ浦の戦いに勝利し、平氏滅亡。

      頼朝、守護・地頭を設置。(文治の勅許)

1189年 頼朝、奥州を平定。

1190年 頼朝、後白河法皇より、右近衛大将に任ぜられるも辞して鎌倉へ帰る。

1192年 後白河法皇死去。源頼朝征夷大将軍に任ぜられる。

1199年 源頼朝死去(53歳)

      北条時政以下有力御家人13名による合議制をとる。(将軍独裁権禁止)

1200年 梶原景時の乱→景時・景季ら討たれる。

1203年 比企能員の乱(比企一族滅亡)将軍頼家を伊豆修禅寺に幽閉。

      北条時政執権就任。

1204年 頼家(23歳)修禅寺で時政に殺害される。

1205年 時政、畠山重忠父子を殺害。将軍実朝排除失敗で時政失脚。

      北条義時、執権となる。

1213年 和田合戦(→和田義盛、挙兵し敗死)北条義時、侍所別当兼任。

1216年 将軍実朝、渡宋企て珍和卿に大船建造を下命。

1219年 実朝(28歳)鶴岡八幡宮社等頭にて公暁に殺害される。(源氏正統断絶)

1221年 承久の乱幕府軍、京を制圧し六波羅探題を置く。

      後鳥羽上皇隠岐に、順徳上皇佐渡に、土御門上皇を土佐に配流。

1223年 新補地頭の得分を定める。大田文作成命ず。

1224年 執権義時死去(62歳)北条泰時、執権となる。

1225年 大江広元死去(78歳)、北条政子死去(69歳)。時房、連署となる。

      幕府、評定衆を設置。

1226年 藤原頼経、将軍就任(摂家将軍初め)

1230年 諸国に大飢饉

1232年 北条泰時御成敗式目貞永式目)制定

      (武士の荘園侵略が進む)

1246年 名越光時、前将軍頼経を擁し執権排除謀り露見。

1247年 宝治合戦→三浦泰村反し三浦一族滅亡。

     (北条氏の有力御家人ほぼ打倒完了)

1249年 幕府、引付衆を設置。

1252年 宗尊親王、将軍就任(皇族将軍の初め)

      (五摂家分立)

1254年 幕府、宋船の入港を年5隻に制限。

1259年 後深草天皇、皇弟亀山天皇に譲位(両統迭立の因)

1268年 高麗使、蒙古(元)皇帝フビライ書を携え太宰府に来着。

      幕府、西国諸国に蒙古襲来の防備を命ず。北条時宗、執権就任。

1269年 蒙古(元)使、対馬に来着。

1271年 九州所領の御家人に沿岸警備下命。元使来着。

1274年 文永の役→元・高麗連合軍九州上陸。

1275年 異国警固番役を制度化。元の宣諭使、長門に来着。元使を鎌倉に召喚して斬る。

1276年 幕府、博多湾沿岸に石塁を築く。

1279年 元使、筑紫に来着。博多で元使を斬る。

1281年 弘安の役→元の東路軍・江南軍14万人、九州北部に来週。

      北条時宗死去(34歳)

1285年 霜月騒動内管領平頼綱、安達一族を滅ぼす。

      (持明院統大覚寺統両統迭立

1286年 幕府、異国警固をさらに厳重にする。

1293年 鎮西探題設置。鎌倉に大地震。執権北条貞時平頼綱らを滅ぼす。

1297年 幕府、初の徳政。(永仁の徳政令

1306年 日本船、元の慶元(寧波)に趣き交易。

1317年 文保の御和談→持明院大覚寺両統迭立を定む。

     (為替・無尽銭・質屋現れる)

1321年 院政を廃止し、後醍醐天皇親政。記録書設置。

1324年 正中の変→朝廷の倒幕計画露見。

1325年 幕府、建長寺船を元に派遣。

1331年 元弘の変→朝廷の再度倒幕計画露見。→後醍醐天皇笠置山に逃れる。

      →楠木正成、赤坂城に挙兵→幕府、光厳院天皇とする。

      →笠置寺陥落し後醍醐天皇捕わる。

1332年 後醍醐天皇隠岐に流される

      護良親王、吉野挙兵。楠木正成、千早城にて応じる。

1333年 後醍醐天皇隠岐脱出。京都帰還。名和長年の助けで船上山に拠る。

      足利尊氏六波羅を陥れる。新田義貞、鎌倉攻略、鎌倉幕府滅亡

1334年 護良親王を鎌倉へ配流。京二条河原落書

      足利尊氏建武政権より離反。

1336年 湊川の戦い楠木正成戦死(43歳)。
      尊氏、光明天皇擁立、建武式目制定(室町幕府成立)   

 

伊勢道*山陰にも残る伊勢参りの道 

山陰には、出雲大社もあるし、近いところでは大山(山岳信仰)がある。

なぜ、伊勢まで行かないと行けないのか?

なぜ、伊勢に惹かれるのか?

どの位の日数と金額がかかるのか?めっちゃ気になるのである。

伊勢道を見つけたのは、兵庫と鳥取の県境で兵庫で一番高い山である『氷ノ山』

一番高い山の麓をわざわざ抜けなくても・・・。

調べてみた。→伊勢参りにいくら掛かるの?

         f:id:quucyan:20151015105538p:plainなんでやろな〜。

で、こちらが鳥取県若桜町の氷ノ山の麓にあった、伊勢道の標識。
当時はこの左を川沿いに氷ノ越に向かうんだと思うが、私たちは右の車道でもう少し先の登山口から氷ノ越に行こうと思う。

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登山口から15分くらい歩いたところに石畳があった。

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登山コースにもなっている。(氷ノ越 標高1250m)この道が昔、伊勢道だった。

氷ノ山という名前からも、近くにスキー場があることからも、夏以外にここを通るのは、かなり厳しいものだったに違いない。登山靴もフリースないもんにゃ〜。
ほんま、昔の人はすごいな〜。

下が氷ノ越。右が氷ノ山山頂。f:id:quucyan:20151015104214p:plain

正面が福定親水公園への道。こちらが伊勢道。霧が深くてわかりずらいにゃ。
左にお地蔵さんがいて、右の白い木に伊勢道の表示がありますた。

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ここを越えて今の9号線・山陰道に合流なんだな〜。
どのくらいの、往来があったのかにゃ〜。タイムスリップしたいにゃ〜。

源平合戦のその後・入水した平氏がここにいた。

平経盛隠棲伝説の地

鳥取県若桜町の国道29号線沿いに落折という地名がある。

ここのパンフレットによると

落折集落は平成25年現在の戸数は15で、全戸が「平家」姓を名乗っています。
明治以前は「平」姓を名乗っていたそうですが、明治初期に平民の苗字使用が許可された際に「平家」姓に変えたと言われています。また「落折」という集落名も明治初期に「落居」から「落折」に改称されたと言われている。

この落折には平経盛とその配下20余名が逃れ、平氏再興の時機を狙っていたという伝説が残されています。

平経盛平忠盛の子で、清盛とは異母兄弟にあたります。
壇ノ浦の戦いで敗れ、入水したと言われていますが、その後陸に上がり集落奥の窟屋に隠れ住んだと言われいます。

現在も集落には経盛が隠れ住んでいた洞窟や馬隠しの谷、経盛の墓と伝わる宝篋印塔が残され、大切に守られてきました。

・・・

かつて集落内の旧藤原神社には経盛愛用の甲冑が奉納されていましたが、昭和13年に社殿が火災にあい、焼失しています、あるお宅の仏壇には「埋徳院殿深幽浄堅大居士」と刻まれた経盛の位牌や、経盛愛用の五人張り黒滋藤(くろしげどう)の弓の折れが伝わっており、鳥取市の天徳寺と高野山金剛峰寺のそれとともに弓の一部とされています。
                      (落折集落のご案内より 抜粋)

それにしても、すごいところにゃ〜。

城跡行くより、なんかものすごい気を感じる・・・。ゾクゾクっ
ここだけ巨大な岩がどか〜んとあって。本当にここに隠れてた気がするにゃ〜。
(隠れ住んでたと言われる地が多いの中で)
いや〜。


もし、29号線を通ることがあったら、是非訪れて欲しいにゃ。
岩までは直接車でも行けるけど、是非手前で車降りて、歩いてそのすごさを感じて欲しいにゃ〜。

            f:id:quucyan:20151015104231p:plainきらびやかな毎日を送っていた平氏

                                              こんな岩の中で?と思うと。思わず同情…。

 

そのほかにもたくさん(平家落人隠遁地)

兵庫県但馬には平家落人部落と言われているところはざっと40か所もあるようですが、中でも御崎(みさき)は特に有名なようです。

 

"壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武将達は海路隠岐対馬へ逃れようと壇ノ浦から漕ぎ進めたが、日本海に出てから強いシケに遭い、因幡の海岸に押し流されてしまった。この御崎には平家一門のうち、門脇宰相平教盛を大将とし、幼帝安徳天皇の衛士の大将伊賀平内左衛門家長、その子光長、矢引六郎右衛門、小宰相局など一行七人が命からがら漂着したのは寿永四年四月五日のことであった。一行が御崎のある伊笹岬の沖にさしかかると一条の煙が見え船戸に漕ぎ付け、それを頼りに崖をよじ登って行くと、小さな庵に高野聖の森本浄実坊(もりもとじょうざねぼう)という修験者がいて、一行は小麦の蒸し物をクズの葉にのせて施され飢えをしのいだ。

それが今日に続く『小麦祭り』日吉神社)の起源である。
浄実坊の勧めに従って土着し、平家再興を計るため、先ず『一の谷』奥に門脇宰相が居を構え、二キロほど東西へ隔て東の方に伊賀平内左衛門、西の方に矢引六郎右衛門が居を構え、追っ手に備えたとつたえられている。”    

                       御崎に立てられている看板より

   
  地方に今も住んでおられる『門脇』という姓を名乗る方々はこの御崎の平家伝説の看板に記されている『門脇宰相平教盛』からの由来だと思われる。
  宰相』とは参議の唐名で、そして参議とは昔の太政官の職員で、大・中納言に次ぐ重職。平教盛とは、平家のリーダー平清盛の異母弟で、平教盛は当時『門脇殿』とか、『門脇中納言』と称されていました。なぜ『門脇殿』と言われたか言うと、当時平家一門の人々は京都の六波羅にかたまって住んでおり、その六波羅地区には門があり、その門の脇に邸宅があったところから『門脇殿』と言われるようになったようです。
  その地名は今も京都に残っています。

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逃げ切った村重のその後・・・。

いや〜。村重すごいっ!
逃げの精神力ハンパない!

でも、そもそもなんで謀反を起こしたのか?

                                                         f:id:quucyan:20151015105538p:plain

 ↓   以下はウワサだけど、下克上の時代。こき使われるより使いたいよね。

①信長のパワハラ
本願寺担当の村重は、なかなか本願寺が落ちなくて信長をイラつかせていた。

②臣下の者が、敵に通じてた?
籠城などで、長期戦になると敵味方が仲良くなることがあるらしい。
いろんな事情がある。
上司にあたる村重が、戦っていても自分は一向宗(本能寺派)だったり、
お家を残すために、兄弟分かれて戦ったり、もともと、相手が憎い訳でものない場合もよくあり、毎日顔を合わせているとそうなるのか?
話では、部下が本願寺に米を流していたと聞いた村重が、これ以上信長が切れたら、自分の命が危ないと察したからとか。

③下働きに、疲れた。
本願寺の戦いの途中に、中国征伐に向かわされる。信長の部下はいつでも、忙しい。
常に、戦い、常に移動し、常に疲れている。
もう、うんざりなのである。
まして、中国は秀吉担当の区域。
もし、戦いに勝っても手柄は秀吉のもの。秀吉のために、タダ働きはうんざり。
も〜!いやだ〜‼︎

 

 謀反の理由は、痛いほどよくわかよ〜。 
でも、信長は『あの、村重が〜?』と信じられなかったらしい。
信長は、村重を気に入ってたんだね。
そやけど、その後の村重の行動は信じられないっす。

中国征伐から帰ってきて・・・
1578年10月 謀反。籠城。
      (約1年後)
1579年9月 兵糧がつき始め、村重、有岡城伊丹城)を抜け出す。
   12月 有岡城が破れ女房衆も含め600人程が見せしめの処刑される。
       重臣や妻・家族ら36人は、京都を引き回され六条河原で斬首される。
       村重は、尼崎城を抜け出して尼崎城へ。
      尼崎城から花隈城へ)
1580年7月 花隈城を抜け出し、毛利領内(尾道)へ。
1581年8月 村重の残党をかくまったとして数百人にのぼる高野聖が処刑される。
1582年6月 信長が本能寺の変で無くなると堺で茶人として住む。

                                                                                               f:id:quucyan:20151015104214p:plain

すごいにゃ〜?
自分のために何人殺されてるねんっ!
せめて、みんなで逃げようや〜。
自分ひとり?
ほんま、心強いな〜。
そんで、すぐ茶人として高野山のふもと
堺に棲めるなんて度胸がすごいわ〜。
この精神ならパワハラが原因じゃないかもね〜。きっと耐えれるわ〜。

 

 

※ 高野聖高野山から勧進のために諸国に派遣された僧)

■■■室町年表■■■

1333年 後醍醐天皇、京都帰還。

1334年 護良親王を鎌倉へ配流。

1335年 中先代の乱足利尊氏建武政権より離反。

1336年 湊川の戦い楠木正成戦死。
      光明天皇擁立。建武式目制定(室町幕府成立)

      後醍醐天皇、吉野へ(南北朝の争乱へ)

1338年 新田義貞、越前藤島に戦死。

      新田尊氏、北朝より征夷大将軍に任ぜられる。

1339年 後醍醐天皇死去(52歳)。

1348年 四条畷の戦い→楠木正行戦死(23歳)

1349年 足利基氏鎌倉公方に。

1350年 観応の 乱→尊氏・直義兄弟の抗争。

      倭寇高麗沿岸を侵す。

1358年 足利尊氏死去(54歳)

1367年 高麗使来日、倭寇の禁圧を求める。

1368年 応安の半済令足利義満征夷大将軍に。

1369年 倭寇、明の山東・ を侵す。明、倭寇の禁求める。

1375年 高麗使来日、倭寇の禁を求める。

1378年 足利義満、京の室町に花の御所造営。

      今川貞世、肥後で菊池武朝(南朝側)を破る。

1388年 倭寇高麗の光州を攻め、州都を焼く。

1389年 高麗軍、対馬を攻撃し 奪還。

1390年 土岐氏の乱→幕府、美濃守護土岐康行を討つ。

1391年 明徳の乱→山名氏清敗死。

1392年 南北朝の統一後亀山天皇京都に帰還し、後小松天皇に神器を譲る。

1393年 幕府、土倉役・酒屋役の課税を恒常化する。

1398年 義満、朝鮮王朝に倭寇禁圧を約し、修好の意伝える。

1399年 応永の乱→大内義弘、堺で敗死(45歳)

1401年 義満、第1回遣明使を派遣。惣の発達。

1402年 遣明使帰国。義満、明の国書を受け取る。

1404年 義満、明使より「日本国王之印」「永楽勘合」受領し、勘合貿易始まる。

1408年 足利義満死去(51歳)。

1411年 明使を拒絶。明との国交中断。

1416年 上杉禅秀の乱→禅秀、鎌倉を攻める。

1419年 応永の外寇→朝鮮王朝軍、対馬に来攻。

1426年 近江坂本の馬借ら京に乱入。

1428年 正長の土一揆→京畿土民、徳政を要求して蜂起。→正長の徳政碑文。

1429年 播磨・丹波土一揆

1432年 義教、明へ使者派遣し日明国交回復。大和土一揆

1434年 勘合貿易復活。

1438年 永享の乱→幕府。鎌倉公方足利持氏を討つ。

1441年 嘉吉の乱→赤松満祐、将軍義教(48歳)を殺害。

1451年 琉球の商船兵庫に来着。大和の土一揆 山城に

1454年 土一揆蜂起。幕府、分一徳政令公布。

1455年 鎌倉公方足利成氏、上杉房顕と武蔵分倍河原に戦い下総古河に敗走。

1457年 太田道灌江戸城築城。

1467年 応仁・文明の乱おこる(〜77)→京都で激戦

1472年 近江坂本の馬借一揆

1474年 加賀の一向一揆

1477年 応仁・文明の乱一応終結。

1480年 幕府、琉球の入貢を促す。

      農民、疲弊し、連年各地に一揆蜂起。

1488年 加賀の一向一揆→守護富樫政親を高尾城に攻め、国中を支配。

1491年 北条早雲、伊豆を支配。

1495年 北条早雲、大森氏を追い小田原城入城。

1500年 京都祇園山鉾巡行復活。

1506年 越前守護朝倉定景、一向宗吉崎御坊攻撃。

1510年 三浦の乱→日朝間断絶

1516年 幕府、大内義興勘合貿易の管理を命ず。

1523年 寧波の乱→寧波で大内・細川の使者争う。

1526年 今川氏親「今川仮名目録」定める。山口・小田原などの城下町栄える。

1533年 石見の大森銀山開発。法華宗徒による京都市政。

1536年 伊達稙宗「塵芥集」を定める。天文法華の乱おこる。

1542年 斎藤利政(道三)、美濃を支配。

1543年 ポトルガル人、種子島に漂着し鉄砲を伝える。

1547年 最後の勘合船。武田信玄「信玄家法」定める。

1551年 ポトルガル船、豊後に来航。陶晴賢大内義隆を殺害。

1553年 上杉謙信武田信玄川中島の戦い(以後5回)

1555年 毛利元就厳島の戦い陶晴賢を破る。

      南蛮貿易で、堺・平戸栄える。

1560年 桶狭間の戦い織田信長今川義元(42歳)を討つ。

1565年 三好義継・松永久秀ら、将軍義輝(30歳)を殺害。

1567年 織田信長斎藤龍興稲葉山城を陥し岐阜と改名。

      ポトルガル船、長崎に来航。信長、美濃加納を楽市とする。

1568年 信長、足利義昭を奉じて上京。

■■■安土・桃山年表■■■

1568年 織田信長足利義昭を奉じて上京。

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1570年 姉川の戦い→信長、浅井長政・朝倉景健を破る。

      石山合戦始まる。伊勢長島の一向一揆

1571年 信長、比叡山延暦寺焼打。

1572年 三方原の戦い→武田信玄、家康軍を破る。

1573年 信長討伐を謀った将軍義昭を信長追放(室町幕府滅亡)

      信長、朝倉・浅井を滅ぼす。

1575年 長篠の戦い→信長・家康軍、武田軍を破る。

      信長、安土城を築き居城とする。上杉謙信能登七尾城を攻める。

1577年 信長、安土城下に、楽市・楽座の制を敷く。

1580年 信長、本願寺顕如と和す(石山合戦終結)イギリス商船、平戸に来航。

      信長、大和に検地実施。

1582年 天目山の戦い→信長・家康、武田勝頼を討ち武田氏滅亡。

      本能寺の変。→明智光秀の奇襲。

      山崎の戦い

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1583年 賤ヶ岳の戦い→秀吉、柴田勝家を討つ。

      秀吉、石山本願寺跡に、大阪城の築城を開始。

1584年 小牧・長久手の戦い→家康、秀吉軍を破る。

      スペイン商船、平戸に来航。

1585年 秀吉、関白となり藤原姓を受ける。
      長宗我部元親、秀吉に降伏(四国平定)

      佐々成政、秀吉に降伏(北陸平定)

1586年 秀吉、太政大臣となり、豊臣の姓を賜る。

1587年 秀吉、九州、島津義久を降す(九州平定)・バテレン追放令

1588年 秀吉、長崎を直轄領とする。後陽成天皇聚楽第行幸

      秀吉、刀狩令天正大判を鋳造。

1590年 秀吉、小田原征伐北条氏降伏、続いて奥州制圧(全国統一)

      家康、江戸城入城。奥羽の検地。

1591年 士農工商の身分法制定。秀吉、ルソン総督に服属を勧告。

1592年 全国の戸口調査。文禄の役→挑戦出兵開始。

      秀吉、朱印船制度を制定。

1594年 伏見(桃山)城完成し、秀吉移る。

1597年 慶長の役(再度の朝鮮出兵

1598年 秀吉死去(63歳)朝鮮より撤兵。

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1600年 関ヶ原の戦い→家康の東軍、西軍を破る。

1601年 東海道に伝馬制度。慶長金銀鋳造。京都所司代設置。

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  関・連・記・事

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秀吉・官兵衛とともに中国平定。そんな中、村重が・・・。

◆秀吉とうとう中国に乗り出す。

姫路の黒田官兵衛が、都で感じたこと。それは、これからは信長の時代だと。
戦国の世を終わらせるためにも・・・

1577年
4月  毛利氏が播磨(英賀)に上陸。

 官兵衛の兵500兵が、5000の毛利兵に奇襲し勝利する。この後、小寺の忠誠心をしめすため主君の息子に変わって、官兵衛の長男松寿丸(長政)を人質に差し出す。

10月 信長が松永久秀を討った後、秀吉は中国入りに入る。

◆官兵衛姫路城を差し出す。
官兵衛は秀吉の為に、姫路城を差し出す。
(これに対し、主君小寺政職は渋い顔をする。秀吉・信長を認めてない)
上陸そうそう生野銀山を有する竹田城を秀長に攻めさせる。

播州の反織田勢力をやっつけろ!

この時、明確に反織田を掲げたのは佐用城の福原助就と上月城の上月政範(官兵衛の義兄でもある)。
官兵衛は、妻の兄への説得が出来ずやむなく攻撃に向かう。

11月27日 福原城攻撃

       上月城攻撃

       (上月城陥落の跡は、出雲で毛利に追い出された尼子氏再興を願う
        尼子勝久・山中鹿之助ら700人が上月城に入る)
        丹後平定。

◆秀吉、信長に報告。

秀吉、播州平定を約束した日を過ぎ、まずは信長に報告に安土・長浜にもどる。
(年末・年始は今と同じ。みな里に帰る)
丹後平定により、播州平定したと思いたかったが、官兵衛の主君でさえまだ毛利・織田のどっちつかずの態度で播州全体決めきれない状況である。 
それが、決まるのが年明けのこと。

◆別所氏の反対で一気に毛利へ傾く。

1578年
2月
  秀吉、兵7千5百人と共に再度、播州入り。

加古川にて播州の評定を行う。(播州一円の藩主で会議)播州の城主の思いは?
  毛利につくか? vs  織田につくか?

播州一の城主。別所氏が織田側につけない理由・・・叔父の賀相の立場・プライド。

当主は長治だが、実質別所を牛耳っているのは、叔父の別所賀相である。
その弟は重棟といい重棟は、兄との確執の為にすでに織田側についている。
もし、今後、織田側についたとしても、立場は弟の下になってしまう。
そんなことになるくらいなら、毛利に付く方がマシである。

別所氏20万石の大名であり、いわば秀吉と同じくらいの格である。その上、
どこの馬の骨かわからない出の秀吉に従えない。(播州一円がそう思っている)

触頭(信長からの指示)播州一の別所のはず。単なる家老の官兵衛に従えない。
(信長にも言われたはずではないか?)

配下の者に一向宗が多い。
(大阪石山本願寺で信長と戦っている。信長の比叡山の焼き討ちに反発。)

◆別所、毛利につく。

評定の後、別所は毛利側につくことを決め、急ぎ、戦いの支度を始めた。

◆毛利が動きだす!上月城の危機。尼子の危機。
 上月城は小城ながら播磨美作備前の三国の国境に位置する堅牢な山城で、秋から尼子氏(織田側)が入っている。
 しかし、別所が反旗を翻した今戦いの場所は三木城のはずであったが、毛利軍は、かなめの宇喜多が元領地であった上月をとりたいとの要望に応える為、上月城を目指すことになったのだ。それにもかかわらず、宇喜多直家本人は病を理由に城を出ず、弟に任せた。
この行動に官兵衛は直家への調略の見込みを感じたという。

3月12日 山陰道から吉川元春。(出雲富田城)
       ↓   山陽道から小早川隆(広島沼田城)・宇喜多忠家   
             ↓    毛利輝元吉田郡山城)→本陣(備中高松城
                     ↓
      ちっぽけな上月城に5万の大軍が押し寄せる。

       ↑

      秀吉・黒田官兵衛高倉山で待機。↑
          4月末:荒木村重2万到着。 ↑f:id:quucyan:20151015104342p:plain


                明智・滝川一益派到着。 
                     5/1織田信忠兵庫に到着   

4月18日 上月城の籠城戦が始まる。

f:id:quucyan:20151016214845p:plain尼子氏は長い籠城戦をしいられ(約70日間)

もはや、食べるものも飲むものも尽きていた。 

この間、秀吉は動くことも出来ず、しかも荒木も明智・滝川も担当外での戦場であり、特に明智・滝川軍は秀吉の指揮下に不満がある。(この戦いに勝っても秀吉の手柄になる。)そのため、秀吉は自分では統率力が欠けるので、信長に直々に来て欲しいと、使いを送っている。
しかし、信長は来ない。信長は勝つ戦しかしないし、短期戦が得意であり、また、上月のような狭い地形での戦いは苦手であったからこなかったとも言われる。
しかし、対毛利としても、上月ごときで信長の出番でもない気がする。

6月14日 この膠着状況にどうしようもなくなった秀吉は、陣を百姓の格好で
      抜け出して京に居る信長に会いに行く。
      しかし信長は『上月をすてよ』と。

6月26日 信長の命により、籠城している尼子遺臣団を残し、書写山へ撤退。
      上月城は捨て駒にされたのである。
 7月   1日   上月城は開城し、尼子氏滅亡。
8月17日 織田家援軍は主な支城を討ち、中国を取り引き上げた。

◆三木城でまた籠城戦。村重に何が起こった?     
      秀吉、三木城へ出陣。
      官兵衛、別府城にて毛利軍に勝利。

村重が伊丹城に戻った頃、村重の部下が本願寺に米流していることを部下から知らされ、信長の怒りを恐れた。もしくは、信長の怖さ・秀吉との付き合いにうんざりしていた。などいろいろ言われているが、
とにかく、村重は右近らと共に毛利へと傾いてしまった。

10月21日 信長、荒木村重の謀反を知る。高山右近らも謀反へ。

10月23日 村重、明智らの説得に応じ信長に会いに安土城へ行くが、
       道中家臣より『あの信長が許すわけがない』と諭され、
       伊丹城へ引き帰す。
11月    官兵衛、村重に会いに有岡城に行く。が、当主小寺の意により、
       そのまま、幽閉される。(当主小寺は毛利へ寝返る)
11月 9日 信長、村重討伐に向かう。山崎へ5万の兵を連れて進軍。
       信長、右近に対し宣教師・キリシタンの弾圧をほのめかす。
       この時期、秀吉は三木城を離れ信長の下で村重討伐に参加している。さすが秀吉。
11月16日 高山右近がキリシタン・配下の者を守る為、髪を下ろした。

1579年
 2月    三木城は相変わらずの籠城戦。しかし補給が続いていた。
 5月27日 秀吉、補給路を断つ為、淡河城を攻める。
 6月13日 竹中重治病死。
 9月10日 秀吉、補給路を断つ為、魚住城を攻める。

10月    宇喜多氏が織田側に寝返り。毛利本国との連絡を断ち切られる。
10月15日 有岡城総攻撃の中、官兵衛救出される。
11月    有岡城が織田勢に落とされる。
12月    村重、尼崎城を抜け出す。

1580年                                                            f:id:quucyan:20151015104147p:plain

 1月 6日 三木城へ総攻撃。

 1月17日 別所一族は自刃して終焉。
       当の本人、賀相は逃げたため、味方の城兵に打ち取られた。 
 7月 2日 花隈城開城。妻子も含め500人もの人々の斬首の刑が行われた。
       が、村重本人は、毛利(尾道)へ亡命し生き残った。
賀相ともに、すごい神経なやつだ。→村重のその後。

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  関・連・記・事

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古都散策『幕末の志士の町』・・・萩。

江戸時代当時の街並みが、たくさん残っていて、タイムスリップしたみたい。当時の建物を修復したりして、さらに、昔の良き街並みに整備されて来てるにゃ。

 1607年幕府の命令により萩37万石に減封された長州藩が幕府を倒すまでの萩は、大きく4区画に分かれているので、ぶらりするときに、ちょと頭の隅に置いていくと町歩きが楽しくなるなる。 ①城と旧厚狭毛利家萩屋敷長屋のある島 ②平安橋、北の総門の外堀の内側の上級武士の島 ③町家・寺町・船屋・中級武士・橋本川と松本川の内側の島 ④下級武士・農民

萩の地図
楫取素彦旧宅地 東光寺 松下村塾 吉田松陰幽囚ノ旧宅伊藤博文吉田松陰誕生地萩城跡鍵曲旧明倫館春日神社鍵曲久坂玄瑞旧宅跡女台場旧萩藩御船倉野山獄跡/岩倉獄跡明倫館山県有朋誕生地木戸旧宅小田村旧宅晋作誕生地

地図上の水色の線は川で、クネクネしている方が、藍場川と言って川沿いの景観もしっとりとしていて散歩するのに気持ち良かったにゃ。

赤い線は萩往還と言って、藩主が参勤交代の為に、通る道で、菊屋家住宅前などの城の近くの道は、御成道と呼ぶらしいにゃ。

は、今も残る松陰先生たちの跡だにゃ。

薄い緑ゾーンが、藩士たちの住んでたところ。

ピンクのゾーンは、寺や町人がが住んでた町。

萩は、ゾーン別けがしっかりしてるから、城に近ずくに連れて、家がどんどん大きくなっていくのを感じるにゃ。

松陰は、下級武士の中でも無給なので、松本川を越えた山の方に住んでたそうな。

 

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涙松は、松陰が江戸に送られる際にここで城下を見つめながら萩と別れたとされる有名な地で、この地図の少し右下の方に有るんけど…今は、何も見えへんで…。
では、では、萩往還を下ってそろそろ城下に入るで〜。

涙松

おららは、萩の真ん中の旧萩藩校明倫館からのスタート。
かっこええなっっ〜。ここで10代で松陰も小田村さんも、先生しっとったんやね〜
現代の体育館とも言える有備館坂本龍馬もここを訪れたそうにゃ。

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混雑しないうちにまずは大河ドラマ館でお勉強。

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御成道を通って。菊屋家住宅に向かうにゃ。はしょるで〜。木戸さんち。
木戸さんちの前は、江戸屋横丁ゆんやけど、この通りにある円政寺には、晋作っちが幼少の頃、身体が弱かったのを心配してお母さんとよくお参りに来てたらしい。

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晋作んち。あんなにドラマで金持ちぶってたからどんなかと思ったら、せまいやん。
って言ってたら、昔の半分になっているんやて。ドラマでは、いっつも、イケメンが演じてるけど、写真ではそんなに・・・。
この地域に住めるのは、200石位かな〜(1石=1人の1年分のお米の量=人にとってちゃうやん?アバウトやけど雇える人数わかりやすい)

高杉晋作の誕生地

高杉晋作


ピストルも展示されとったよ。小田村はんもこの辺に養子にきとったけ〜跡地あったよ"(晋作さんの写真は「ウキペディア」より)
晋作んちの前の道も菊屋横丁って言って有名みたい。漆喰のうろこ塗りって言うてたかなぁ〜『日本の道百選』に認定されてるらしいで〜。この辺全部え〜けどな〜。
わて、結構萩の町すっきやで〜。
お腹すいてる人は、この辺りで、コトコトはんでも、畔亭はんでも割烹あじろはんでも、入ってゆっくりしたらえ〜。わてらは、ご主人が雑貨も見たいからって、コトコトはんで、夏みかんジュースや。縁側で休憩や〜。

休憩終わったら、外堀の中へ…。
城に向かう前に、鍵曲をちょっと見ておこう!敵の侵入を阻むための道やで〜。
めっちゃええ道やん。ここも百選入れといたって〜。

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そろそろ、城へ参ろうか…。
城内は200円で、自転車でも入れる。もし、ここまで歩きやったら、レンタサイクルここから、借りて回るといいと思うにゃ。

萩城跡

お城をぐるっと一周したら、海岸に沿って女台場にむかうにゃり。
正面が指月山にゃりよ〜。城は左の山裾あたりだったのかにゃ〜?

海岸

おっと、この道には、予約しているおはぎが!
お彼岸限定のおはぎを予約してるにゃ。ご主人さま、さすがのクイジ。
とりあえず、店内で山口と言えば…外郎。生のういろうで一服。チュルンですな〜。

ういろう

女台場は、以外にも海岸とは言えない内側にあったよ。(松の向こうが海)
下のブルーに見えるのは、ブルーシート。(笑)ここから、当時の大砲で、船には当たらない気がする…。晋作っちは、嫁に手伝うなって言ってたらしいけど、どうしてだろうか?気になる〜。

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御船倉と言われるあたりも、当時の建物が多くて、雰囲気あるある。自転車なら是非ちょと中側の道を通って、昔を感じてから、野山獄・岩倉獄にGO!
現在向かい合わせにあるように見えるので、ドラマと感じが違うって思うけど、
おらも、最初びっくりしたけど、当時の入り口はどちらも南側にあったみたいだにゃ。
野山獄って方が町人ぽいけどって、おらみたい思った人は→こっちも読んでね。

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おら達は、これから昼休憩。ご主人さまに、ちょっと頑張って自転車漕いでもらってしーまーとでお昼ご飯にゃ〜。さかな!さ・か・な!
さかな食べたら、萩のメインの松下村塾&松陰を祀ってある神社まわるで〜。

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さかなと、ささなみどうふ頂きました!

つぎ、いってみよーーーー!メインだよ!
メインなのに写真とってないじゃん! だって、人いっぱいだったから〜。
ドラマ館で撮った写真とりあえずみーっけ。

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見えるかなぁ〜。おら、肉球が邪魔してシャッター押すの難しいだよね〜。
ここは、松下村塾の横の 歳から住んでたお家の一部。

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一番奥の、松陰神社

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伊藤博文も近所に住んでて、ぜひ行ってみてそ〜。(山口弁ふう?)レンタサイクルの時間が迫っている(16:30)ので、一旦、風情のがいいと人気な藍場川沿いに明倫館まで戻りまーーーーす。車に、乗り換えて…維新ロードから松陰誕生の地に。お墓側と住居地跡の真ん中に、松陰と金子ちゃんの銅像がありました。金子ちゃ〜んっ!

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萩の城下町は、松陰の誕生地が一番えかった。上級藩主の家より借景よかない?
萩城まで一望出来たにゃよ。畑はどこにゃりにゃ〜?

松陰誕生の地からの城下松陰誕生の地

晋作っちもここに?あれ?下関にあるよね〜。

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この家をちょっと降りたとこにあのこわ〜い玉木のおっちゃんが住んでたみたい。
最後に、『花燃ゆ』の準主役の小田村ちゃんの19歳から住んでた家に。
養子先には居にくかったんかな〜。彼岸花がたくさんっ。

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おらは、萩のお菓子が大好きなのにゃ!旅には甘いものも必要なりにゃ〜。

どの店も甘すぎなくて、かな〜り美味しいので寄らずに帰っちゃダメよ。

その中でも山口の外郎は食べてみて!名古屋も有名だけど、おらのオススメは

 ↓↓↓

「豆子郎」の ういろう&お彼岸のおはぎ

萩では、上の地図だと…海岸側の萩一輪ホテルの近くにあるじょ。是非ぜひ。

ういろう

 検索してたら、豆子郎の本が出ていた。びっくり〜。

豆子郎~菓子作りの素人が生み出したこころの経営~

豆子郎~菓子作りの素人が生み出したこころの経営~

 

 お彼岸限定のおはぎは予約必須。生外郎は、たまらずお店で食べたんにゃ〜。 

何個でも食べれるにゃ〜。もっとくれ〜。

山口県以外では神奈川のあずみ野店のみ。お取り寄せは、電話のみ出来るので、
是非取り寄せてみては?

もひとつ、萩と言えば・・・夏みかん。
元祖夏みかん菓子:光圀本店。大正5年創業。

ケンミンSHOWに出て、電話が殺到して夏みかんが足りなくなったらしい。
1月には、落ち着くのかな?野山獄の近くに店舗がある。

山口県 萩市 夏みかん丸漬【元祖夏みかん菓子 光國本店】

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「ささなみとうふ」

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ランチのオススメはいろいろあるけど、今回は伊藤博文も愛した『ささなみとうふ』を食べたくて来たよ。こんなの知らなんだ〜。なんでも大豆生絞りで作るらしく(普通は蒸して?)お殿様も参勤交代でここ佐々並宿を通る際は好んで食べたらしい。江戸時代からの味。置いてあるという道の駅あさひにも無くて、佐々並宿のとうふ屋さんに直接言ったけど、稼働してない感じ・・・。ご近所さんに聞いたら、昨日運動会で休んでたらしい。今日もお休みのもよう〜。ガックリ。

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そしたら、昼のしーまーとでみーっけた!ど〜しても、そのまま今すぐ食べたいとご主人様におねだりして、刺身も買ってもらったにゃ〜。固そうにみえて、しっとり柔らかくて豆の味もすごいにゃ〜。きっと、運動会前につくったものだから・・・出来立て当日はもっと美味しんだろうな〜定価は110円だったかな?

「びっくり屋」

東萩駅の近くの道沿いにある店。混んでなくても、おばちゃんがテンパりはじめたら一杯って言って断られるので、夕食時などは、予約するか時間をずらす方がいいかも?(笑)サクッと食べて帰るのにはちょうどいい感じ。B級グルメだね。

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野山獄と岩倉獄は、野山さんちと岩倉さんちだった‼︎

松陰が捕らわれたとして、有名な萩の野山獄。

 

なんで、偉いさんが入る方が野山なんだろうと不思議に思ってたら

な〜んと、もともと藩士のお家だったそうで・・・。

野山さんと岩倉さん。

 

江戸初期二人に、何があったのか?

酔っ払った岩倉さんが、向かいの野山さんの家族を殺したそうで・・・。

その後、岩倉さんは藩によって野山さんちで斬首の計に処された。

 

(野山さんと岩倉さんと何で揉めてたのかわからないけど、)

 

結果は、喧嘩両成敗ということで、両家は取り潰しとなり、屋敷は没収。

 

その後、藩は屋敷を牢獄に建て替えて、

切り込んだ側の岩倉邸を下牢にしたんだって!

 

両家取り潰しは、家族がつらいな〜。

主人が亡くなるだけでも、生きて行けそうにないのに、
家までなくなったら・・・。

両家とも200石の藩士だったそうだから、手伝いさんいたり、
子供も沢山いたりしてたんじゃないかな〜。
岩倉さん。何があったの〜?

 

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楫取の名前の由来は三田尻の楫取り(船頭さん?)

江戸時代初期の小田村家は、参覲交代等の上方へ向かう萩往還の最終地、防府三田尻の水軍基地で働く操縦士の家でした。その家に養子に来た公望に、水軍の役人だった河野養哲が開いた越氏塾で住居や食事をもらい勉強までさせてもらったそう。(養子先では、両親も亡くした公望にはつらい環境だったのでしょうか)萩に明倫館が創設されると、養哲からの推薦で、明倫館の講師として萩に上りました。

1720年頃、小田村家が萩城下に住む始まりです。

小田村は儒官の家柄となり、家柄を存続させるため、養子を取ったりするのは当時当たり前だったようで、特に特別な才能のいる家柄では素質重視で養子を取っていたそうです。
11歳の伊之助も儒学者になる為、ココに養子に来たのです。

いや、養子に来たら儒学者にならなければならないのです。

こうして、小田村家は三田尻の楫取りから萩藩の高級知識人の家に変わっていったのです。

歴代の小田村家は、養哲への感謝の気持ちからか越氏塾での講義を度々行ったと言われます。伊之助が藩主毛利敬親からもらった「楫取」という名も先祖を知ると、とても暖かい逸話になりますね。

養子先の小田村家であるのに、伊之助は晩年三田尻に戻って、最後を過ごしました。
両親のもと松島家ではないもんなんですね。

まだまだ、当時の人の気持ちに添えませぬ。

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             もっと、知りたくなったにゃ〜。