無血開城:お墓からみる 最後の将軍慶喜の思い。
慶喜は、明治になって『徳川宗家』から別家として『徳川慶喜家』の創設を認めてもらったのを知ってるにゃ?
谷中にあるお墓に行ってみた。
なぜ、慶喜だけ谷中に眠っているのか不思議だったからにゃ!
この問いは早々に解決!谷中霊園には都立谷中霊園・寛永寺・天王寺の三つの管轄が
あるそうで、慶喜のお墓は寛永寺管内にあたるそう。
それなら・・・墓所は寛永寺(現谷中霊園内)的な表示にしてくれたらややこしくなかったのに・・・。
ただ、みなさんとはちょと離れてるね〜。
慶喜のお墓は、天皇のお墓のシンプルさに感銘を受け、古墳型にした。
って、聞いたことがある。ちょうど、近くに来たので見てみよう!
ほっほ〜ん。これが古墳ね〜。茸石円墳というらしい。
確かに実にシンプル。古墳で思い浮かべた緑のこんもり型ではなくて、石で積み上げられたこんこり型。
ただ、寺院の墓地で、神式の異例なお墓だそうで、寛永寺側はびっくりしたそうだ。
これら全ては慶喜の意向で、寛永寺の一橋家の横の敷地を貰い、自らお墓の計画したらしい。
墓の出口に立派な木が、しかも奥に・・・なんだか目の前に同じ形のお墓が!
「同じだ〜」って、思いながら、近ずいて行くと・・・。
おじさんが、声かけて来てくれた。「子供の目線を持ってるね〜」と。
いや、猫目線です・・・。
おじさんは、『ここは、勝海舟の娘婿の「勝精のお墓」だよっと。慶喜の息子(十男)で跡継ぎの小鹿が亡くなった後、養子縁組で勝家に入ったんだ』と教えてくれた。
だけど、お父ちゃんの近くでお父ちゃんと同じ円墳を造って眠ってる。
こちらの方が、近くに寄って観れるので、いいかも。
詳しい話は、親分に聞いてくれってことで・・・
革ジャンの親分に「じゃあ、ツイテこい」って言われ、もう一度、慶喜公のお墓へ。
以下は、革ジャン親分に教わったことも入れながら・・・。
谷中霊園に行ったら、是非、親分に話を聞かせて貰って下さい。
宗家に跡嗣を出す2の藩とは違うのは、以下の家訓や参覲交代なしの江戸詰め。
・「他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがある」(『武公遺事』)。
・「御三家であっても、水戸家からは将軍は出さない」
・水戸学(朱子学)を学び勤皇家としてしられる
・「もし、徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇なく帝を奉ぜよ」
慶喜は江戸詰めの父の元を、生後わずか7ヶ月で離れ、水戸で10歳まで水戸で暮らす。
父が、嫡子以外は国許で教育するという方針だったからだ。
ここでの教育は、慶喜に”水戸藩の誇り・役割”を植え付けた時期だったろう。
7男でありながら、斉昭は、慶喜を長男の控えとして手元に置いていたほど聡明な男の子だったと言われる。
12代将軍家慶、妻から水戸の話を聞く。
8代将軍吉宗の頃には、御三卿という、御三家に継ぐ家格の家が創設された。
これは、このころ早世する子が多く(七五三を迎えるのは本当に感激だった)将軍家の後嗣を守る役割の一つ。一橋家・田安家・清水家と名付けられた。
その、一橋家も、4代目から実子が授からず他家から養子を貰ってなんとか嗣いでおり、その9代目に慶喜が指名された。
これは、父斉昭の正室と将軍家慶の正室が姉妹だったことにより、水戸に立派に成長した慶喜がいるよと聞いたのが発端のようだ!
そうして慶喜、11歳で一橋家を相続。
家慶も27人もの沢山の子供に恵まれたが、成人まで成長したのはなんと、一人!
家定だけだったそうで、その家定も身体が弱く13代将軍に就いたが、宗家の後継者問題が湧くきっかけとなる。
慶喜は、将軍家には興味なく、「天下を取って、失敗するより取らない方がいい」と言っていた。この後継者問題・幕末劇は老中阿部正弘に起因するとも言われている。
生前、家慶が次期将軍に慶喜をおしたのを、阿部が引き止めたからかもしれない。
大奥の皆さんは、節約にうるさい一橋派が嫌いなのです。
安政の大獄・桜田門外の変・大政奉還については、別で詳しく勉強してみよう。
慶喜の人生をはしょってきたが、9歳まで学んだ水戸学:水戸家としての家訓を叩き込まれて優秀であった慶喜にとって、将軍になるのは不本意であったろう。しかし、時代は、尊王攘夷。「王を尊び、夷を攘う(はらう)」という意だ!
奇しくも自分と同じ朱子学(水戸学に取り入れたれてた)を学んだ武士たちが立ち上がった時代。水戸家として、王(天皇)を尊ぶのはもちろん徳川の中でも一番尊んでいる。しかし、夷とは徳川家になる。どちらの気持ちも一番わかる慶喜にとって、ここはどれだけ辛い事だったか想像できる。
これを、穏やかに終結させれるのは水戸出身の自分の役目と思って、将軍に就いたのかも知れない。そして、
「もし、徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇なく帝を奉ぜよ」
の家訓を重んじたならば、自ら戦う事はせず、(かといって攘夷軍に加勢するわけにもいかない)速やかに『大政奉還』して、新体制を自ら作ろうとしたようだ。
しかし、もう世の中の勢いは止まらなくなっていた。
新政府軍 VS 旧幕府軍
とうとう、慶喜に追討令が出る。朝敵となったのだ!
(こうなると、自殺するか、違うと訴えるかの選択しかない!だって水戸家だもの。)
これほど、慶喜にとって辛い日はなかったと思う。
その後、慶喜は自ら寛永寺で謹慎し、天皇に逆らう意のない身の潔白を証明しようとしたのだ。(→詳しくは、戊辰戦争の章で。)
痛いほどに、わかる。身の潔白は慶喜の墓にまで現れる。
やっと、お墓のお話に戻って。
明治35年に公爵を得ると徳川宗家の別家『徳川慶喜家』の創設を願う。
(ここに、慶喜のずっと抱えてきた気持ちが溢れている:水戸家は宗家より帝を大切に家柄。戦い途中で江戸に帰って来て、勝海舟に押し付けた後自らは寺にこもったその理由。宗家の一員として、祀られることより水戸家のプライドとしても、最後くらいは自分らしく眠りたいと思う気持ちがここにあふれている)
そうして、歴代の将軍の墓地ではなく、寛永寺の住職に、一橋家の横の場所をもらい自ら神式の墓を建て、宗家ではなく、水戸家のプライドを守っている。
なんだか、同情しちゃうわ〜。
↓寛永寺側にある一橋家の墓(とても綺麗に掃除されています)個別管理の為塀があります。
大河ドラマ「八重の桜」
慶喜(小泉孝太郎)が大阪から江戸に逃げる前の表情。
ちなみに、徳川慶喜家4代目当主の慶朝さんが、当時慶喜が愛したコーヒーの味を再現した豆を販売していらっしゃいます。是非、思いを馳せながら飲んでみたい。
慶喜は、西洋通で特にフランスの方と交友が深かったようなので、当時のフランス人好みの味かもしれませんね。
一橋家の子孫の方が経営している歴史ある農場もご紹介!
是非、今では珍しい「こぶのある牛」を見に行きたい!