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歴猫の八兵衛・放浪記  飼い主の影響で旅するにゃ

ご主人様が歴史が好きで、付いてくうちに、楽しくなってきたにゃ!みんなも一緒に歴史の旅にでるにゃ〜♪

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松蔭も西郷も訪れた学問所 弘道館 (茨城・水戸)

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全国一の規模を誇る藩校 弘道館一張一弛」

 天保4年(1833年)初めて水戸に帰国した9代目水戸藩徳川斉昭は、大日本史の編纂した彰考館を訪れすでに藩校建設に意欲を持っていましたが、天保の基金や藩財政の困難から反対意見も多く、1835年から5年間幕府より毎年5000両の金が下賜することが内定してすると早速藩校の構想に着手しました。藩主となって10年、ようやく念願の藩校建設に取りかかり1841年弘道館を(仮)開設1842年偕楽園を開園させたのです。

弘道館は三の丸の重臣達の屋敷があり、彼らの屋敷を移転させて建てたそうです。

(仮)開設から15年後の1857年が本開館と言われています。
これには、弘道館の聖域と言われる、鹿島神社からの分神遷座孔子廟孔子神位などに時間がかかったのだと言われます。

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↑これが当時の弘道館全図ピンクの部分が現在の弘道館

弘道館:正庁・至善堂がある建物(重要文化財
②武道の試験が行われた庭
鹿島神社
八角堂(復元)
孔子廟(復元)要石歌碑・学生警鐘
⑥文館
⑦武館
⑧医学館
⑨馬場
10 調練場(現在:図書館・三の丸県庁舎)

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孔子廟の上のすう虞(霊獣)       ↑鹿島神社の鳥居

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↑八掛堂            ↑文館のあった跡:現在梅林

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現在見学出来る建物・弘道館は、大きく正庁と呼ばれる試験や儀式をするところと、警備や家老たちの詰所と、藩主の休息所(至善堂)に分かれる。ちなみに弘道館とは学問所という意味であり、全国に同じ名前の建物がある。

弘道館は、

家格=実力 の一致を目指していたので、家格により出席日数が違いました。
また、文館は一定水準以上の者しか入館出来なかったが、武館は無試験だったそうです。ちなみに、試験は月2回もありますっ!
さらに、弘道館は15歳から入れるのですが・・・卒業はありませんっ!
一生勉強です!若い者から年配の者まで学びは終わりがないそうです トホホ・・・

  弘道館見どころ

まず、玄関で圧倒されます。かならず・・・。
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『尊攘』その上に目をやると『弘道館』ともう読みにくくなった扁額は斉昭書。
  尊攘も斉昭書と書いていた本があったけど、展示しているのは違う方のよう・・・。

『舞良戸の弾痕』明治元年弘道館の戦いの際の弾痕。見つけれるかなぁ?
玄関を入ると、右も左も詰所になる。正庁は左。控えの間の『尊攘』に圧巻しながら廊下を進む。三の間・二の間・正席と行くと、敏感な人だけしか分からない細工がしてある。・・・正席だけ少し木戸などが小さく作られている。分からないだろうな〜。
わたしゃわからんかったよ〜。

↓間取りはこんな感じ。下側が玄関で右上が至善堂と呼ばれる間。

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この建物の成席と至善堂の畳は葵の畳縁がされていて格式高い部屋ということが一目瞭然!庭を見ると、綺麗な長方形!ここは武術の試験会場!緊張するね〜。庭側の軒下に『游於藝』の扁額がある。これまた斉昭の書。字上手いよね〜。論語の一説にある芸に遊ぶによるものらしく、ここで言う芸とは、六芸と言われ、礼(作法)楽(音楽))射(弓術)御(馬術)書(書道)数(算数)をさし、文武だけではなく芸も極めようという意味だそうだ。
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玄関のちょうど反対に、便所と湯殿がある。
湯殿が面白い。真ん中に水が流れやすいように、ちょうど船底のようになっている。
ここで、武術の後や勉強の合間に気合の水浴びでもしたのだろうか・・・。

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その先に、十間畳廊下があり、ここは正庁と至善堂を繋ぐ間として、また藩主の警護をする家臣たちの控えの間だった。廊下つたいにまた、三の間・二の間とあり至善堂に至る。

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ここは藩主の休息の間であり、藩主の子供達の勉学の場所で、さらに明治元年徳川慶喜が謹慎したとされる間だ。飾ってあるのは、要石歌碑の拓本で真ん中から上下に読み、「日本古来の道徳は永久に変わらないものであるから、日本人である者はこの道を踏みちがえることがあってはならない」という歌意があります。四の間には、その慶喜ゆかりの長持が展示されている。

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溜と呼ばれる部屋には現在農人形と呼ばれる一対の人形が飾られているが、斉昭は農業にもとても関心を持っており、小さな農人形をいつもそばに置き、その器にいつも米粒一粒をお供えしていたそうだ。女中の吉原はお下げする度に、その米粒を乾燥させて保存しておいた。ある時、何もお出しするものがなかったので、その乾燥した米粒を使ってきな粉をまぶしてお出ししたと言うのが水戸銘菓の『吉原殿中』の始まりだそうだ。五家宝の起源でもあり味もほぼ同じだが、しいていえば、吉原殿中の方が大きくさっぱり、ねっとり感が少ないように思う。徳川ミュージアムで小さい農人形を2体ほど見た気がする。あっぷにするとちょっと怖い顔・・・。

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↑これが、財政難の根源(笑)斉昭公は、これを諸国大社や公卿らに贈ったようです。
↓その為に、水戸拓が生まれました。

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北澤商店(弘道館内)伝統の技:水戸拓

弘道館に伝わる遺墨を拓本した水戸拓。江戸時代に長崎で中国人から拓本の技術を学んで持ち帰ったのが始まりとされ、弘道館内で本の出版を手がけていた北澤家が受け継ぎ現在4代目だそうです。北澤家に伝わる版木は光圀公、斉昭公藤田東湖などを含め100点以上で、大日本史の量産の目的もあったとか・・・。

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とりあえず、なんといっても納豆です。水戸は・・・。
そぼろ納豆・納豆のかき揚げ・・・。
この天狗納豆の店名の由来は、水戸の天狗党(攘夷派)から来ているそうだ。
悲しい天狗党の話はまたこんど。

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吉田松蔭も22歳の時、東北に遊学した時に、一ヶ月ほど滞在し、会沢正志斎や豊田天功に教えを受けたそうです。

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  関・連・記・事

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