烈公と呼ばれた徳川斉昭の『尊攘』に捧げた一生。
唯一、『天皇のお味方せよ』と代々伝えられていた水戸徳川家。
光圀(義公)からの大日本史編纂事業や江戸詰めで貧乏藩として有名だった。
黒船来航により幕府ではななく、日本(天皇)を守るべき時が来た!
年表には『もうひとりの水戸藩士 著:水野哲太郎』からの解釈を織り込んでいます。
弘道館正面の扁額。
1800年(寛政12)3月11日 1歳:斉昭公生まれる。7代藩主の三男として。
1829月(文政12)11月 30歳:家督相続し、9代藩主となる。
この頃、60年ぶりの伊勢おかげ参りの流行年
1831年(天保2)4月6日 31歳:有栖川織仁親王の娘登美宮を夫人として迎える。
1833年(天保4)3月5日 33歳:初めて水戸に入る(1年滞在)。
偕楽園予定地に梅を植える。昔から水戸では松竹梅ではなく茶竹梅を庭に植える。
1834年(天保5)9月13日 34歳:神武天皇御陵修営を建議。
1837年(天保8) 37歳:天保の改革を始める。
1839(天保10)6月20日 39歳:斉昭が幕府に意見書(戊戌封事)を提出する。
1840年(天保11)1月25日 40歳:2度目の就藩(4年半)追鳥狩・検知などを実施。
1841年(天保12)5月15日 41歳:天保の改革布令
8月1日 弘道館の仮開設。
弘道館について詳しくはこちらをクリック。
(初代教授頭取:会沢正志斎・青山延干)
(斎藤弥九郎:神道無念流)
8月15日 斉昭は大船建造を幕閣へ提案。
1842年(天保13)7月 43歳:偕楽園の開園。
偕楽園は、弘道館の一対のものとして建てられる。財政難にもかかわらず、斉昭悲願の建物。 ここは公園だ!公園だ!と主張すればする程疑わしい作り。見晴らしいい場所。本でも、ガイドもここは戦うための準備がそこかしこに見られる。ここでも斉昭が外国との戦いに備えているのがわかる。
12月26日 藩内の寺院に梵鐘により大砲を作る旨を達する。
東照宮唯一神道に(政・教・祭の一致の為に仏教排斥に)
1843年(天保14)9月11日44歳:老中水野から阿部正弘に変わる。
1844年(天保15)4月2日 45歳:千波湖畔で大がかりな軍事教練・追鳥狩を実施。
4月13日 江戸付家老中山備後守が幕府より詰問される。
4月18日 斉昭、幕府より参府を命ぜられる。
5月 2日 水戸を出発し、5日到着後、謹慎となる。
5月 6日 斉昭が致仕、駒込の屋敷にて謹慎の命(甲辰の変)
5月12日 斉昭が隠居を命ぜられる。
〈弘道館の表門は一時閉ざされる。藩内の派閥争い激化〉
1847年(弘化4)9月1日 48歳:阿部老中の勧めで、7男七郎麿が一橋家を相続する。
1949年 3月14日 50歳:斉昭、藩政参与を許される。
1851年(嘉永4)12月19日〜1月20日 松蔭が水戸に逗留。(弘道館)
1853年(嘉永6)6月3日 54歳:ペリー浦賀に来航。
(このころ常陸の松木がお台場に運ばれる。築造費約75万両)
7月 3日 斉昭、隠居を解かれ海防参与(外交顧問)に命ぜられる。
7月17日 ロシアが長崎に来航。
9月 水戸藩に軍艦一隻の建造命令!(念願叶う)
10月18日 斉昭、大砲74門を幕府に進上する。
常磐神社にある溶解炉。軍艦・大砲と幕府に進上出来る財源があるじゃん?
尊攘に関わる仕事には喜んで進んで提案してやるのがミエミエ。笑
1854年(嘉永7)1月11日 55歳:ペリー再来日。2月10日から林大学ら交渉始める
3月 3日 日米和親条約調印。
4月 5日 反射炉建設のため幕府より1万両を借りる。
1854年(安政元)1月4日55歳:石川島で軍艦着手。(現IHIの前身)
7月9日 日章旗をもって日本国総船印となる。
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斉昭は、総船印についても意見したと言われている。
1856年(安政3)3月4日 57歳:反射炉で銑鉄溶解に成功する。
5月 刻本『大日本史』を諸国大社及び公卿諸侯らに贈る。
9月18日 品川海上の旭日丸に招き宴を張る。
(この頃堀田・阿部が時期将軍に慶喜を打診)
1857年(安政4)5月 58歳:弘道館本開会式
弘道館の聖域と言われる鹿島神社と孔子廟の完成
6月17日 老中阿部正弘が病死(37歳)
斉昭、軍制改革参与を退く。
7月23日 軍制改革等の参与を免ぜられる。
10月21日 ハリス登城。通商条約の交渉始まる。
1858年(安政5)1月 堀田の上洛決定。→斉昭、義兄鷹司正道前関白に手紙を書く。
2月18日 堀田ら、京で関白・太閤らに接触。
4月20日 堀田江戸に帰着。
(この失敗で老中内での発言権失い、大老を置き松平慶永を置くことを提案)
5月 6日 慶喜擁立派の外交官川路が左遷される。
6月19日 日米通商条約調印。
6月24日 斉昭ら登城し、井伊直弼と調印の不可を討論する 。
6月27日 井伊、家茂継嗣を正式に発表。
7月 5日 おしかけ登城を理由に斉昭駒込で急度慎・蟄居・謹慎に。
7月 9日 日下部伊三次ら謹慎を解く為京へ。(雲浜らと合流予定)
8月 8日 戊午の密勅が下る。(日下部らの働きかけによる)
戊午の密勅は、2通作成され、一通は先に水戸藩宛てに発送され、
数日後、幕府宛てに発送された。
8月17日 斉昭(謹慎中)に戊午の密勅が報告される。
8月23日 コレラ大流行
9月 5日 井伊の安政の大獄が始まる。
密勅を画策した雲浜・日下部・公家ら一橋派・攘夷派の取り締まり。
井伊はこれは斉昭の陰謀によるものとして取り締まる。
1859 (安政6)8月27日60歳: 斉昭が「水戸にて永蟄居」を申し渡される。
9月 1日 斉昭が永蟄居を申し渡され水戸へ向かう→4日水戸着。
12月16日 幕府、戊午の密勅を返納する勅書を書いてもう。
(天皇は条約については、一時しのぎだと判ったから、密勅は返納でいいと)
幕府側は、不利な事も書かれてあった勅書は見せずに、水戸藩に返納を迫ったため
水戸藩は、返納は天皇のご意思と信じる派と信じない派に分裂‼︎
12月20日 斉昭参加で勅諚返納の大評議(水戸城内)
1860(安政7)1月13日61歳:咸臨丸、品川を出発。
1月15日 安藤信正が老中に。密勅の返還要求が厳しくなる。
(3月5日を起源とする最後通牒)
2月15日 斉昭が水戸士民に勅諚返納を諭す。
藩主・元藩主が返納しろと言っても、もはや聞かない藩士ら。
激派・静派の抗争が激しくなる。
2月 水戸藩の過激派らが長岡宿に集結。密勅が江戸に行かないように。
高橋多一郎ら脱藩し江戸に向かう。
3月3日 桜田門外の変 (大雪の日)
返納の期限2日前水戸浪士らによる井伊大老の暗殺。
1860(万延元)6月13日61歳:幕府、再度返納を命ずる勅書を下賜してもらう。
8月15日 斉昭、謹慎中の水戸城中で没する。(病死)
1860年8月26日 勅命
戊午の大獄その他、国の為に処罰されて死んだ者の罪は釈免すべし
斉昭、英蟄居が解かれる。
その後、『戊午の密勅』の件は、変や、天狗党等の混乱によりうやむやになり、
勅書は水戸に留めおかれたままになった。
1863年(文久3年)8月会沢正志斎亡くなる。
1864年(元治元年) 藤田小四郎(東湖4男)天狗党結成 64人→ 千人に
1865通商条約の勅許が出る。
お金がないない貧乏水戸藩が、国防の為には大砲も作るし船も作る。内緒で戦いの場、戦う準備も知恵も準備していた・・・。それなのに・・・
大政奉還後に活躍出来なかったのは、奇しくも
斉昭にとってどんなに悲しいことだったろうか?
内緒の異国との戦いに備えた場所とは・・・こちら。