黒船来航から始まる桜田門外の変。
安政の時代・・・全然安心できる政治ではなかった。
どんどん外国人は増えて行くわ、大きな地震が立て続け起こるわ。
外国人が持ち込んだコレラが大流行して何万人も死んでしまうわ・・・
この災難は、誰のせいなのか・・・。 井沢さんの書を参考に解説
青:江戸での出来事 オレンジ:京での出来こと 緑:地方での出来事 灰:災害・その他
時代背景:水戸斉昭は江戸詰&家定病がちなので、牛耳ってます。
1853年 7月 3日 ペリー浦賀に来航!
1854年 3月3日 日米和親条約 ベリーと幕府が勝手に結ぶ。後日天皇に報告。
11月4日 安政の東海地震(M8.4)駿府を含め、静岡大打撃。
11月5日 安政の南海地震(M8.4)紀州藩、宇和島藩、土佐藩大打撃。
1855年 2月 1日 飛騨地震(M6.8)
10月2日 安政の大地震(M7.4)江戸城下大打撃。藤田東湖圧死。
1856年 7月21日 ハリス下田着。日米通商条約を交わしに上陸。
1858年(安政5年)
1月17日 孝明天皇『金で動くではないぞ』と、すでに関白らに手紙。
2月18日 堀田ら、ハリスに60日の猶予を貰い、天皇の勅許を求めて京へ。
3万両を持参して京に上り、関白・太閤らを説得に向かう。
2月26日 飛越地震(M6.7)金沢藩あたりに被害多し。
4月24日 堀田、ハリスに会い7月27日まで延期を求める。
5月 6日 井伊、慶喜擁立派の川路を西丸留守居役に。(左遷)
6月18日 評議「行きずまった時は・・・調印を認める」(井伊)
6月19日 条約調印。後日「速達」(老中奉書)で天皇に事後報告。
(井伊大老の戦略か?天皇を怒らせ堀田らの責任に。一橋派の弱体化を)
6月21日 堀田と松平忠固に登城の停止。
6月22日 井伊、各大名に総登城を命じ、条約調印の布告。
6月23日 井伊、堀田と松平忠固を罷免。
代わりに井伊のイエスマン太田資始・間部詮勝・松平乗全を老中に。
慶喜、登城し、「堀田の責任はOK出した井伊の責任でもある」と批判。
6月24日 松平慶永が出勤前の井伊の家(彦根藩上屋敷)に押しかける。
<おしかけ登城> 斉昭・慶篤・慶勝・慶永
家定は、実母本寿院の意向でほぼ慶福に確定。しかしまだ、慶喜擁立を推し進めた。
6月27日 孝明天皇、「老中奉書」が届き条約調印を知り、激怒!
6月28日 孝明天皇退位宣言する!(内閣解散のようなもので、あわてた九条関白が
幕府側の説明と釈明の使者を呼ぶことで一旦落ち着く。)
7月5日 井伊、斉昭(急度慎)慶篤(兄弟とも登城停止)慶勝・慶永(隠居)に。
御三家らに前代未聞の沙汰。全ては「上様の思し召し・・・」
7日6日 将軍家定(35歳)の病死。京からの使者要求の書が届く。「三家か大老を」
「今大変で、水戸も謹慎だし間部と酒井で堪忍して〜。」
ちょうどその頃、水戸斉昭が処分されたことを知る。大老は俺の意向を無視してやがる!
7月 8日 島津斉彬、薩摩で三千の兵の訓練(クーデター準備)後、発病。
7月 10日 オランダと通商条約調印。
7月 11日 ロシアと通商条約調印。
7月16日 斉彬、回復せず病死。(父による毒殺か?)
(勝手な兵の移動は、武家諸法度違反であり、お家取りつぶしになる。)
7月 18日 イギリスと通商条約調印。
7月 末 コレラの大流行。(江戸だけでも死者3万、とも26万とも)
↓
開国のせいだ!外人を追い出せ!(間違ってはないが・・・)
8月8日付け 戊午の密勅が発送される。
↓
水戸藩京都留守居役 鵜飼知信(60歳を過ぎていたので・・・)
かわりに息子の 鵜飼幸吉
↓
水戸藩江戸屋敷 家老 安島帯刀が受け取る。
このくだりを書く必要がある・・・のだ。
9月 5日 安政の大獄が始まる。
9月 7日 梅田雲浜を捕縛。(証拠書類の押収)
9月10日 梁川星巌を捕縛。(すでにコレラで亡くなっていたが)
証拠書類を押収し、さらに関わった人物が拡大。
9月18日 ★鵜飼父子捕縛。(本来、町奉行所は藩士には手が出せない)
★(鷹司輔煕の腹心)小林民部良典捕縛。
★(三条家の腹心)飯泉喜内捕縛。
日下部伊三次(江戸にて)捕縛。
幕府のねらいは、九条関白追い落としの『最大の黒幕』左大臣近衛忠煕。
その腹心とされる月照と西郷隆盛にも追っ手が・・・
西郷、近衞左大臣より月照を奈良で匿ってくれと頼まれる。
西郷、一度京に戻ってみると、自分も危ないことを知る。
薩摩に戻ることを決意し、大阪から月照と共に馬関(下関)に向かう。
この時のちの騎兵隊のスポンサーになる白石正一郎や野村望東尼などに世話になる。
10月 9日 フランスと通商条約調印。
10月22日 ★橋本左内、江戸で捕縛。
西郷らの人相書が九州まで来ていることを知り、別々に行動。
11月 7日 月照、薩摩入りする。
11月11日 間部の悪事を一ヶ月後に知った、吉田松陰はこの日藩の郡奉行を訪れて、
大砲を借りたいと願い出る。「上洛して、老中間部を打つために!」
ちなみに、毛利家は大江広元の子孫で、代々『元』を受け継いでいるが、遡れば朝廷の臣。
天皇の直臣である。幕府は、天を恐れぬ罪を犯している!無礼を懲らしめなかれば!
11月15日 月照、薩摩藩より追放令が出る。(日向に退去せよ)=出たら殺される。
満月の夜、船上で宴をし二人は入水自殺を図る・・・『月照りが西郷を救う』
12月 西郷は藩籍から削られ、名を菊池源吾として奄美へ配置換えになる。
10月24日 間部、入京して37日後、参内。
「九条辞職も近衞の移譲も幕府は認めていない」と。(幕府の承認が必要)
近衛忠煕は関白を返上。
11月 ★近衞家に仕えていた篤姫の養母村岡73歳が捕縛。(異例)
12月 吉田松陰、野山獄に収監。(倒幕の危険があったため)
12月 孝明天皇「条約の件の疑問については氷解した」との達し。
1859年(安政6年)
4月 一橋派で密勅の「主犯」だから・・・
★右大臣・鷹司輔煕 辞官・落飾→出家に追い込んだ
★三条実万 落飾
このころ雲浜が吉田松蔭と会ったことがあることが判明。松蔭、江戸へ。
7月 ★松蔭、無罪が確定にもかかわらず、評定所で自ら老中討伐を告白。
遠島(無期懲役)となる→井伊により死刑に。
8月27日 ★「主犯」斉昭を国元で英蟄居(終身禁固)
★密勅を最初に受け取った水戸藩家老安島も無罪から井伊により切腹刑。
9月14日 松平忠固急死。
10月27日 松蔭、斬首刑。
12月20日 慶篤、「戊午の密勅」返納。井伊、大いに喜ぶ!安政の大獄の終り。
しかし、水戸藩士達は、大老に屈して天皇の御意志を踏みにじった。
「かくなる上は脱藩して大老を成敗するしかないっ!」と、思うようになる。
1860年(安政7年)
3月 3日 桜田門外の変
堀田さん、不問だったんですねぇ〜。