真田のゆかりの地:冬の陣の真田丸の真相。
真田山の位置は、大阪城にくっついていた出城のようだったと言われていたが、
先日のヒストリアでも検証していたが、少し離れた場所にあったようだ!
下に、現在の地図に、当てはめてみる。オレンジ色が河などを利用したMAXの大阪城(冬の陣の頃)。青色が今でも空掘町と呼ばれる地域で、地元の人は、ここが掘りだったという。赤色が今回検証された新たな真田丸の位置。
先日、実際に歩いてみたところ。この周辺は小高く山になっていて、確かにこの赤色の建物や学校のあるところは、道との高低差があり、いわゆる崖、塀のようになっている。
1:徳川の大阪城の位置
2:秀吉の大阪城の位置
3:越中井(ガラシャの亡くなった地)
4:ガラシャの像
5:玉造稲荷(秀頼)
6:三光神社(抜け道が有名な神社)
7:心眼寺(真田丸跡地の碑)
8:真田丸(冬の陣)
9:鎌八幡(幸村必勝祈願の寺)
10:徳川のモグラ作戦
11:空掘(現在の空掘町)
12:備前島(徳川軍の大筒から本丸に打たれたとされる)
今回の新しい発見のキーポイントは寺。
心眼寺を含め、このあたりは巨大な石山本願寺があったせいか、たくさんのお寺がありました。さらに高台という立地の良さに、幸村は目をつけたようです。
徳川の的になるべく、この真田丸をさらに目立たせ、相手を挑発します。
挑発に乗った徳川軍は南から、細い寺町を走る事になりました。
突進した徳川軍は真田丸のお堀に慌てるももう、遅し。後から後からやってくる味方の軍勢の勢いで、お堀に落っこちてしまいます。罠にハマった徳川軍は、上からの真田勢の鉄砲に為す術がなかく、次の作戦に出ます。
それなら、モグラ作戦だ!
真田からの鉄砲を避けるように、近くまで、道を掘りながら、掘った土で築山を築きそこから、徳川軍の鉄砲隊が攻撃したと言われる。このモグラ作戦は、黒田長政が送った屏風にも見られるので、機会があればよ〜く見てみてね。
ちなみにこの築山は、当時の鉄砲が届くギリギリの距離のようだ。
しかし、この築山はまた、真田からは大筒での攻撃の絶好の対象にもなった。
三光神社 抜け穴がある事で有名な神社。
5メートル先くらいは見えますが、その先は本当はどこに向かっているのでしょう?
事務所の方は、今より大阪城は近くにあり、大阪城に繋がっていたとおっしゃっていました。
心眼寺 真田丸の北東に位置した寺。
寺の前には、『真田幸村出丸城跡』と石碑が建てられています。門にも六文銭の家紋。
1622年に真田父子の冥福を祈るために「真田山 心眼寺」として創建。当時は、幕府直轄領のため、お墓は建立されず、400回忌に当たり墓石を建立されています。
京都見廻組であった、桂早之助・渡辺吉太郎のお墓もあります。
心眼寺の裏の道。真田丸の一部を彷彿させる。自然の要塞になったのが頷ける段差だ。
鎌八幡 必見幸村が冬の陣で必勝祈願した寺。ぞぞぞ〜っ!とするよ!
鎌八幡(円珠庵)は縁切りで有名なお寺です。内部の撮影は禁止なので、載せられませんが、検索すると、写真が出てきてます。お寺のHPに絵がありましたので、お借りしました。この絵の通り、ご神木に祈りを込めて鎌を突き刺して縁切りをお願いするようです。いろいろな縁があるとおり、人との縁や、持病との縁・自分の性格との縁…、人だけに絞ると、怖くておののいてしまいますが、縁を切ることで、明るい未来を想像してここに来ただろうとの想像してお参りしましょう。
ちなみに、わしゃは「冷え性」との縁切りをお願いしたにゃ。
ゆかりの地パンフレット
大阪で見つけたパンフレット!左から、大阪のゆかりの地(玉造・天王寺・平野・道明寺)と年表・地図を記載。これを持って歩いている人も多かった。真ん中:大阪城に行ったら、櫓の特別公開を開催していた。わしゃが興味あったから載せたけど、今回は時間の都合で行けんかった。右:28ページもある冊子(和歌山ちから入れてるね〜)
「真田ミュージアム」も建設中(3月13日オープン)なので、力入っているんだろうね。冊子の中は、和歌山だけではなく、大阪・長野まで幅広く紹介。ちなみに長野の「信州上田真田丸大河ドラマ館」は1月17日からオープンしている。
下記にリンク貼ってるよ〜。