歴猫の八兵衛・放浪記  飼い主の影響で旅するにゃ

ご主人様が歴史が好きで、付いてくうちに、楽しくなってきたにゃ!みんなも一緒に歴史の旅にでるにゃ〜♪

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源平合戦のその後・入水した平氏がここにいた。

平経盛隠棲伝説の地

鳥取県若桜町の国道29号線沿いに落折という地名がある。

ここのパンフレットによると

落折集落は平成25年現在の戸数は15で、全戸が「平家」姓を名乗っています。
明治以前は「平」姓を名乗っていたそうですが、明治初期に平民の苗字使用が許可された際に「平家」姓に変えたと言われています。また「落折」という集落名も明治初期に「落居」から「落折」に改称されたと言われている。

この落折には平経盛とその配下20余名が逃れ、平氏再興の時機を狙っていたという伝説が残されています。

平経盛平忠盛の子で、清盛とは異母兄弟にあたります。
壇ノ浦の戦いで敗れ、入水したと言われていますが、その後陸に上がり集落奥の窟屋に隠れ住んだと言われいます。

現在も集落には経盛が隠れ住んでいた洞窟や馬隠しの谷、経盛の墓と伝わる宝篋印塔が残され、大切に守られてきました。

・・・

かつて集落内の旧藤原神社には経盛愛用の甲冑が奉納されていましたが、昭和13年に社殿が火災にあい、焼失しています、あるお宅の仏壇には「埋徳院殿深幽浄堅大居士」と刻まれた経盛の位牌や、経盛愛用の五人張り黒滋藤(くろしげどう)の弓の折れが伝わっており、鳥取市の天徳寺と高野山金剛峰寺のそれとともに弓の一部とされています。
                      (落折集落のご案内より 抜粋)

それにしても、すごいところにゃ〜。

城跡行くより、なんかものすごい気を感じる・・・。ゾクゾクっ
ここだけ巨大な岩がどか〜んとあって。本当にここに隠れてた気がするにゃ〜。
(隠れ住んでたと言われる地が多いの中で)
いや〜。


もし、29号線を通ることがあったら、是非訪れて欲しいにゃ。
岩までは直接車でも行けるけど、是非手前で車降りて、歩いてそのすごさを感じて欲しいにゃ〜。

            f:id:quucyan:20151015104231p:plainきらびやかな毎日を送っていた平氏

                                              こんな岩の中で?と思うと。思わず同情…。

 

そのほかにもたくさん(平家落人隠遁地)

兵庫県但馬には平家落人部落と言われているところはざっと40か所もあるようですが、中でも御崎(みさき)は特に有名なようです。

 

"壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武将達は海路隠岐対馬へ逃れようと壇ノ浦から漕ぎ進めたが、日本海に出てから強いシケに遭い、因幡の海岸に押し流されてしまった。この御崎には平家一門のうち、門脇宰相平教盛を大将とし、幼帝安徳天皇の衛士の大将伊賀平内左衛門家長、その子光長、矢引六郎右衛門、小宰相局など一行七人が命からがら漂着したのは寿永四年四月五日のことであった。一行が御崎のある伊笹岬の沖にさしかかると一条の煙が見え船戸に漕ぎ付け、それを頼りに崖をよじ登って行くと、小さな庵に高野聖の森本浄実坊(もりもとじょうざねぼう)という修験者がいて、一行は小麦の蒸し物をクズの葉にのせて施され飢えをしのいだ。

それが今日に続く『小麦祭り』日吉神社)の起源である。
浄実坊の勧めに従って土着し、平家再興を計るため、先ず『一の谷』奥に門脇宰相が居を構え、二キロほど東西へ隔て東の方に伊賀平内左衛門、西の方に矢引六郎右衛門が居を構え、追っ手に備えたとつたえられている。”    

                       御崎に立てられている看板より

   
  地方に今も住んでおられる『門脇』という姓を名乗る方々はこの御崎の平家伝説の看板に記されている『門脇宰相平教盛』からの由来だと思われる。
  宰相』とは参議の唐名で、そして参議とは昔の太政官の職員で、大・中納言に次ぐ重職。平教盛とは、平家のリーダー平清盛の異母弟で、平教盛は当時『門脇殿』とか、『門脇中納言』と称されていました。なぜ『門脇殿』と言われたか言うと、当時平家一門の人々は京都の六波羅にかたまって住んでおり、その六波羅地区には門があり、その門の脇に邸宅があったところから『門脇殿』と言われるようになったようです。
  その地名は今も京都に残っています。

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