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歴猫の八兵衛・放浪記  飼い主の影響で旅するにゃ

ご主人様が歴史が好きで、付いてくうちに、楽しくなってきたにゃ!みんなも一緒に歴史の旅にでるにゃ〜♪

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秀吉・官兵衛とともに中国平定。そんな中、村重が・・・。

◆秀吉とうとう中国に乗り出す。

姫路の黒田官兵衛が、都で感じたこと。それは、これからは信長の時代だと。
戦国の世を終わらせるためにも・・・

1577年
4月  毛利氏が播磨(英賀)に上陸。

 官兵衛の兵500兵が、5000の毛利兵に奇襲し勝利する。この後、小寺の忠誠心をしめすため主君の息子に変わって、官兵衛の長男松寿丸(長政)を人質に差し出す。

10月 信長が松永久秀を討った後、秀吉は中国入りに入る。

◆官兵衛姫路城を差し出す。
官兵衛は秀吉の為に、姫路城を差し出す。
(これに対し、主君小寺政職は渋い顔をする。秀吉・信長を認めてない)
上陸そうそう生野銀山を有する竹田城を秀長に攻めさせる。

播州の反織田勢力をやっつけろ!

この時、明確に反織田を掲げたのは佐用城の福原助就と上月城の上月政範(官兵衛の義兄でもある)。
官兵衛は、妻の兄への説得が出来ずやむなく攻撃に向かう。

11月27日 福原城攻撃

       上月城攻撃

       (上月城陥落の跡は、出雲で毛利に追い出された尼子氏再興を願う
        尼子勝久・山中鹿之助ら700人が上月城に入る)
        丹後平定。

◆秀吉、信長に報告。

秀吉、播州平定を約束した日を過ぎ、まずは信長に報告に安土・長浜にもどる。
(年末・年始は今と同じ。みな里に帰る)
丹後平定により、播州平定したと思いたかったが、官兵衛の主君でさえまだ毛利・織田のどっちつかずの態度で播州全体決めきれない状況である。 
それが、決まるのが年明けのこと。

◆別所氏の反対で一気に毛利へ傾く。

1578年
2月
  秀吉、兵7千5百人と共に再度、播州入り。

加古川にて播州の評定を行う。(播州一円の藩主で会議)播州の城主の思いは?
  毛利につくか? vs  織田につくか?

播州一の城主。別所氏が織田側につけない理由・・・叔父の賀相の立場・プライド。

当主は長治だが、実質別所を牛耳っているのは、叔父の別所賀相である。
その弟は重棟といい重棟は、兄との確執の為にすでに織田側についている。
もし、今後、織田側についたとしても、立場は弟の下になってしまう。
そんなことになるくらいなら、毛利に付く方がマシである。

別所氏20万石の大名であり、いわば秀吉と同じくらいの格である。その上、
どこの馬の骨かわからない出の秀吉に従えない。(播州一円がそう思っている)

触頭(信長からの指示)播州一の別所のはず。単なる家老の官兵衛に従えない。
(信長にも言われたはずではないか?)

配下の者に一向宗が多い。
(大阪石山本願寺で信長と戦っている。信長の比叡山の焼き討ちに反発。)

◆別所、毛利につく。

評定の後、別所は毛利側につくことを決め、急ぎ、戦いの支度を始めた。

◆毛利が動きだす!上月城の危機。尼子の危機。
 上月城は小城ながら播磨美作備前の三国の国境に位置する堅牢な山城で、秋から尼子氏(織田側)が入っている。
 しかし、別所が反旗を翻した今戦いの場所は三木城のはずであったが、毛利軍は、かなめの宇喜多が元領地であった上月をとりたいとの要望に応える為、上月城を目指すことになったのだ。それにもかかわらず、宇喜多直家本人は病を理由に城を出ず、弟に任せた。
この行動に官兵衛は直家への調略の見込みを感じたという。

3月12日 山陰道から吉川元春。(出雲富田城)
       ↓   山陽道から小早川隆(広島沼田城)・宇喜多忠家   
             ↓    毛利輝元吉田郡山城)→本陣(備中高松城
                     ↓
      ちっぽけな上月城に5万の大軍が押し寄せる。

       ↑

      秀吉・黒田官兵衛高倉山で待機。↑
          4月末:荒木村重2万到着。 ↑f:id:quucyan:20151015104342p:plain


                明智・滝川一益派到着。 
                     5/1織田信忠兵庫に到着   

4月18日 上月城の籠城戦が始まる。

f:id:quucyan:20151016214845p:plain尼子氏は長い籠城戦をしいられ(約70日間)

もはや、食べるものも飲むものも尽きていた。 

この間、秀吉は動くことも出来ず、しかも荒木も明智・滝川も担当外での戦場であり、特に明智・滝川軍は秀吉の指揮下に不満がある。(この戦いに勝っても秀吉の手柄になる。)そのため、秀吉は自分では統率力が欠けるので、信長に直々に来て欲しいと、使いを送っている。
しかし、信長は来ない。信長は勝つ戦しかしないし、短期戦が得意であり、また、上月のような狭い地形での戦いは苦手であったからこなかったとも言われる。
しかし、対毛利としても、上月ごときで信長の出番でもない気がする。

6月14日 この膠着状況にどうしようもなくなった秀吉は、陣を百姓の格好で
      抜け出して京に居る信長に会いに行く。
      しかし信長は『上月をすてよ』と。

6月26日 信長の命により、籠城している尼子遺臣団を残し、書写山へ撤退。
      上月城は捨て駒にされたのである。
 7月   1日   上月城は開城し、尼子氏滅亡。
8月17日 織田家援軍は主な支城を討ち、中国を取り引き上げた。

◆三木城でまた籠城戦。村重に何が起こった?     
      秀吉、三木城へ出陣。
      官兵衛、別府城にて毛利軍に勝利。

村重が伊丹城に戻った頃、村重の部下が本願寺に米流していることを部下から知らされ、信長の怒りを恐れた。もしくは、信長の怖さ・秀吉との付き合いにうんざりしていた。などいろいろ言われているが、
とにかく、村重は右近らと共に毛利へと傾いてしまった。

10月21日 信長、荒木村重の謀反を知る。高山右近らも謀反へ。

10月23日 村重、明智らの説得に応じ信長に会いに安土城へ行くが、
       道中家臣より『あの信長が許すわけがない』と諭され、
       伊丹城へ引き帰す。
11月    官兵衛、村重に会いに有岡城に行く。が、当主小寺の意により、
       そのまま、幽閉される。(当主小寺は毛利へ寝返る)
11月 9日 信長、村重討伐に向かう。山崎へ5万の兵を連れて進軍。
       信長、右近に対し宣教師・キリシタンの弾圧をほのめかす。
       この時期、秀吉は三木城を離れ信長の下で村重討伐に参加している。さすが秀吉。
11月16日 高山右近がキリシタン・配下の者を守る為、髪を下ろした。

1579年
 2月    三木城は相変わらずの籠城戦。しかし補給が続いていた。
 5月27日 秀吉、補給路を断つ為、淡河城を攻める。
 6月13日 竹中重治病死。
 9月10日 秀吉、補給路を断つ為、魚住城を攻める。

10月    宇喜多氏が織田側に寝返り。毛利本国との連絡を断ち切られる。
10月15日 有岡城総攻撃の中、官兵衛救出される。
11月    有岡城が織田勢に落とされる。
12月    村重、尼崎城を抜け出す。

1580年                                                            f:id:quucyan:20151015104147p:plain

 1月 6日 三木城へ総攻撃。

 1月17日 別所一族は自刃して終焉。
       当の本人、賀相は逃げたため、味方の城兵に打ち取られた。 
 7月 2日 花隈城開城。妻子も含め500人もの人々の斬首の刑が行われた。
       が、村重本人は、毛利(尾道)へ亡命し生き残った。
賀相ともに、すごい神経なやつだ。→村重のその後。

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  関・連・記・事

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