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歴猫の八兵衛・放浪記  飼い主の影響で旅するにゃ

ご主人様が歴史が好きで、付いてくうちに、楽しくなってきたにゃ!みんなも一緒に歴史の旅にでるにゃ〜♪

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楫取の名前の由来は三田尻の楫取り(船頭さん?)

江戸時代初期の小田村家は、参覲交代等の上方へ向かう萩往還の最終地、防府三田尻の水軍基地で働く操縦士の家でした。その家に養子に来た公望に、水軍の役人だった河野養哲が開いた越氏塾で住居や食事をもらい勉強までさせてもらったそう。(養子先では、両親も亡くした公望にはつらい環境だったのでしょうか)萩に明倫館が創設されると、養哲からの推薦で、明倫館の講師として萩に上りました。

1720年頃、小田村家が萩城下に住む始まりです。

小田村は儒官の家柄となり、家柄を存続させるため、養子を取ったりするのは当時当たり前だったようで、特に特別な才能のいる家柄では素質重視で養子を取っていたそうです。
11歳の伊之助も儒学者になる為、ココに養子に来たのです。

いや、養子に来たら儒学者にならなければならないのです。

こうして、小田村家は三田尻の楫取りから萩藩の高級知識人の家に変わっていったのです。

歴代の小田村家は、養哲への感謝の気持ちからか越氏塾での講義を度々行ったと言われます。伊之助が藩主毛利敬親からもらった「楫取」という名も先祖を知ると、とても暖かい逸話になりますね。

養子先の小田村家であるのに、伊之助は晩年三田尻に戻って、最後を過ごしました。
両親のもと松島家ではないもんなんですね。

まだまだ、当時の人の気持ちに添えませぬ。

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             もっと、知りたくなったにゃ〜。