歴猫の八兵衛・放浪記  飼い主の影響で旅するにゃ

ご主人様が歴史が好きで、付いてくうちに、楽しくなってきたにゃ!みんなも一緒に歴史の旅にでるにゃ〜♪

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高杉晋作

『おもしろきことなき世におもしろく』

1839年 8月20日うまれ。

      萩藩士高杉小忠太春樹・みちの長男(春風)として産まれる。

1857年    (19歳)のとき久坂に誘われ松下村塾に入門。(村塾四天王の1人)

1858年 (20歳)江戸遊学

1859年 (21歳)晋作帰藩中に松陰、獄死。

1860年 (22歳)1月、マサと結婚。8月北陸遊歴の旅に出る。

1862年 (24歳)4月、幕命で幕使とともに上海に渡航。

       7月、帰国度、尊攘論の急先鋒として活躍。

      12月、品川御殿山英国公使館焼き討ち。

1863年 (25歳)3月、10年の暇を、頭髪し東行と号す。

      6月、下関の外国船攻撃にあたり、奇兵隊を組織して総督に命じられる。

      8月18日の政変.

      10月、奥番頭に任ぜられ160石を給せられる。

1864年 (26歳)1月、脱藩し、京都潜伏。

      3月、脱藩罪野山獄に投じられた。

      7月、禁門の変で敗北、長州藩が朝敵に。(久坂・自害)

      8月、四カ国連合艦隊との講話に奔走。(伊藤が通訳)

      12月、藩政府打倒のため下関で挙兵。

      この奇兵隊は我が国で最初の身分を問わない軍隊で、長州藩

      軍事的基盤として明治維新にお大きな働きをした。

1865年 (27歳)高杉家を廃嫡。育(はぐくみ)扱いとなる。

      9月、藩命により谷潜蔵と改名、谷家初代当主となる(100石)

1866年 (28歳)1月薩長同盟土佐藩龍馬・中岡慎太郎・土方元の仲介に

      よって京都薩摩藩邸で結ばれる。

      5月、藩命で薩摩に。長崎で蒸気船(オテントサマ丸)を購入。

      7月、徳川家茂が病死。劣勢だった小倉城での戦いが、小倉藩以外が

      撤兵。小倉藩は火を城に放ち逃走、幕府軍の敗北が決定。

      11月、大政奉還

      奇兵隊を指揮し長府功山寺で決起。藩論を倒幕に統一。

1867年 (29歳)4月14日下関の新地にて肺結核による病死。

      遺言により清水山(下関市吉田村)に葬られた。

 

ゆかりの地

 
奇兵隊所属の兵の写真

 

 

 

 
高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)(左の少年は従者である三谷国松)
 
功山寺挙兵の銅像

高杉晋作誕生地(萩)

菊谷横丁にあり、現在一部公開中。
建物は、当時の南半分の大きさになっているにゃ。

高杉晋作立志像(萩)

誕生地の斜め向かいにある。20歳頃の晋作をイメージした像らしい。40歳くらいに見えるにゃ。

■明倫館・有備館(萩)

晋作が日々剣術稽古した剣術場。
坂本龍馬も立ち寄ったところと言われるにゃ。

■円政寺(萩)

晋作の母が、病弱な息子の健康を祈願するため通った寺。
伊藤博文は、11歳頃この寺で雑役のかたわら読み書きなどを学んだと言われてるにゃ。

松下村塾(萩)

1857年入塾

■野山獄(萩)

『先生を慕うてようやく野山獄』

東光寺台墓地(萩)

 胎髪・臍帯を納めた招魂墓
 周りには松陰の杉家の墓・吉田家の墓がある。

高杉晋作墓(下関市吉田清水)

奇兵隊挙兵地(下関市長府功山寺)

■太田絵堂戦跡(美祢市美東町

 

 

 

■家紋■

高杉晋作の家紋は【丸に四つ割菱】
菱紋は、もともと清和源氏義光流の武田氏の紋。
いわば甲斐国(山梨県)の武田信玄なども菱紋で、その一族、主流、支流も菱紋。
山口県武田氏とは意外とは思う人もいるだろうが、広島県などには安芸武田氏として、武田一族がいたらしいにゃ。

 
墓所東行庵 (下関市
 
墓 (東行庵敷地内)