歴猫の八兵衛・放浪記  飼い主の影響で旅するにゃ

ご主人様が歴史が好きで、付いてくうちに、楽しくなってきたにゃ!みんなも一緒に歴史の旅にでるにゃ〜♪

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『真田丸』キャストでみる戦国関係図。

戦国時代は特に関係図でみると、イメージしやすい!ということで、
今回は「真田丸」のキャスト関係図で進めましょ!(全てNHKさんより)

①1回(物語の始まり)
真田幸村の父の時代:いろいろあってこの頃は武田に仕えていました。
信玄が亡くなり勝頼になったとたん、諸国が武田の領地に攻め込んできます。
その頃、織田の勢いが凄まじく、恐れた武田家臣達がとった行動は・・・

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                          <関係図はNHK真田丸より>
武田の重鎮2人の離反が大きな痛手となり勝頼破れ死ぬ。
筆頭・穴山梅雪が以前から内通していた徳川の調略で織田側に。
(家康の信頼は得られず、お互い腹の内を隠しながらの関係に)
親類・小山田信介が命惜しさに、主君勝頼を自分の城に呼ぶ道中で見捨てて織田側に。
織田信忠に忠誠を誓うが、武田家への不忠を咎められ斬首される)
                              ↓その頃の武田家。勝頼いい人だったのに・・・

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②4回目以降(新たな主君探し)
真田幸村の父・昌幸は、主君を自らの城(群馬県岩櫃城)での籠城準備を進めていた矢先、小山田が「山梨を捨て岩櫃に行くのか?」と主君を問い詰め岩殿城に誘い、道中で見捨てるという作にでた。見捨てられた勝頼は、織田方の兵に殺されてしまう。
主君を失った昌幸は、北の上杉か?東の北条か?西の織田か?南の徳川か?模索する。
僕なら・・・信長怖いから同盟くらいの徳川かな〜上杉さん忠義には厚くても柔軟に行動してくれなそう。
ちなみに、幸村のお姉さん松の旦那は小山田一族。もう二度と逢えないハズの間柄に。しかし・・・

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③8回目以降(まだまだ主君探し)
信濃の国衆は、就いたばかりの織田が滅び右往左往。上杉か北条か。
今の上杉には信濃を守れるだけの力がない、それより、今勢いづいている北条につく方が得策だということで、続々と北条方に。そんな中、昌幸は・・・上杉に直々に出向き、上杉との同盟をお願いし成立する。やいなや・・・幸村もびっくりな発言が!
さっきまで、同盟を願っていた父が、北条に就くと言う。昌幸のあっちにもこっちにもの態度が信用を無くさなければいいのだが・・・。

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④12回目以降(信繁は人気者)

今回の兼続役、ちょっとキリリとしすぎて、『愛』の文字がイメージ出来ない!てのは、置いておいて(笑)、この回より信繁が他の戦国大名に好かれていく場面が出てきそうな流れ。あっという間に妻との別れがきてしまって可哀想な信繁。
真田VS徳川の合戦!負けて当然の真田は『負ける機がしない』と言える程の秘策に出る
信繁も人質中にもかかわらず、上杉より合流が叶う。

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秘策⑴信繁が神川の向こうに陣を張る徳川軍をバカにしておびき寄せる。(開戦!)
秘策⑵交戦しながらどんどん城内に引き込む。穴を掘ったり、上からお湯や石を投げる
秘策⑶その頃、信幸が戸石城から敵の後ろを突くため出陣。
秘策⑷神川の上流に堰き止めておいた関を切る。徳川の援軍の遮断。
秘策⑸本丸の昌幸が最後に出て城内の徳川軍に総攻撃!
秘策⑹逃げる徳川軍を、上田に到着した信幸が攻撃!挟み撃ち!で、勝ち〜!

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⑤14回目以降

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⑥大名の関係は、ほとんど動きがないので、豊臣内部の関係図を。
個性豊かなメンバーです。ドラマで利休は、生まれが堺商人ということで、秀吉に隠れて武器を北条に売ったりしていたという流れになっています。
これを切腹が理由となりますが、うわさの利休像は、茶々が依頼して作ったと言ってましたね。幾ら何でも大きすぎる像でしたな〜。そりゃ受け取らんわ。(笑)

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↓これが、うわさの利休像。大徳寺さんが、お世話になっているお礼で作ったとも言われている。が、ドラマでは、置かされていて、どうしたらいいか・邪魔になっている
感じでしたね。現在、大徳寺さんでは見ることは出来ないので、残念です〜。

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                                (つづく)

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  関・連・記・事

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大河ドラマ 『篤姫』

大河ドラマ篤姫』のキャスト。   

あおいちゃん、この後、結婚したんよね〜。   後日、更新します。

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大河ドラマ 『天地人』

大河ドラマ天地人』のキャスト
妻夫木くん。若いな〜            後日、更新します。

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大河ドラマ 『花燃ゆ』

大河ドラマ 『花燃ゆ』のキャスト。

あれ?なぜか木戸さんの写真が・・・。        後日、更新します。

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大河ドラマ 『江』

大河ドラマ『江』のキャスト。
ここに、黒田官兵衛も出てたとは・・・。今知りました。  後日、更新します。

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大河ドラマ 『八重の桜』

『八重の桜』のキャスト

松平容保さま、かっこよかったにゃ〜。            後日更新します。

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徳川菩提寺『寛永寺』

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    徳川の代々のお墓のある寺。   

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寛永寺の他のみさなん。(綱吉・吉宗・家治・家定・篤姫)が見えますね。

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お墓をぐるっと回って来たら、あった地図。点線の所に慶喜の墓とすると・・・
一橋家は・・・どちら側なのじゃ?わからんくなってきた〜。f:id:quucyan:20151015105538p:plain

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↓こちらは、その他歴代の将軍がいらっしゃる霊園位置。

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谷中霊園の真ん中に、お茶屋と呼ばれる風情ある建物がある。
昔、近くのお寺で「富くじ」が流行り、富くじ目当ての人々が此処でお茶していたのが起源らしい。今も「お墓を管理する場所=お茶屋」と呼ばれる墓地をたまに見かけるが、同じなのかにゃ?

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  関・連・記・事

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無血開城:お墓からみる 最後の将軍慶喜の思い。

慶喜は、明治になって『徳川宗家』から別家として『徳川慶喜家』の創設を認めてもらったのを知ってるにゃ?

 

谷中にあるお墓に行ってみた。

なぜ、慶喜だけ谷中に眠っているのか不思議だったからにゃ!
この問いは早々に解決!谷中霊園には都立谷中霊園寛永寺・天王寺の三つの管轄が
あるそうで、慶喜のお墓は寛永寺管内にあたるそう。

それなら・・・墓所寛永寺(現谷中霊園内)的な表示にしてくれたらややこしくなかったのに・・・。
ただ、みなさんとはちょと離れてるね〜。

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 噂のお墓は・・・古墳型!

慶喜のお墓は、天皇のお墓のシンプルさに感銘を受け、古墳型にした。
って、聞いたことがある。ちょうど、近くに来たので見てみよう!

ほっほ〜ん。これが古墳ね〜。茸石円墳というらしい。

確かに実にシンプル。古墳で思い浮かべた緑のこんもり型ではなくて、石で積み上げられたこんこり型。
ただ、寺院の墓地で、神式の異例なお墓だそうで、寛永寺側はびっくりしたそうだ。

これら全ては慶喜の意向で、寛永寺の一橋家の横の敷地を貰い、自らお墓の計画したらしい。

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 同じ形のお墓が別にもある。

墓の出口に立派な木が、しかも奥に・・・なんだか目の前に同じ形のお墓が!

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「同じだ〜」って、思いながら、近ずいて行くと・・・。
おじさんが、声かけて来てくれた。「子供の目線を持ってるね〜」と。
いや、猫目線です・・・。
おじさんは、『ここは、勝海舟の娘婿の「勝精のお墓」だよっと。慶喜の息子(十男)で跡継ぎの小鹿が亡くなった後、養子縁組で勝家に入ったんだ』と教えてくれた。
だけど、お父ちゃんの近くでお父ちゃんと同じ円墳を造って眠ってる。
こちらの方が、近くに寄って観れるので、いいかも。
詳しい話は、親分に聞いてくれってことで・・・
革ジャンの親分に「じゃあ、ツイテこい」って言われ、もう一度、慶喜公のお墓へ。

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以下は、革ジャン親分に教わったことも入れながら・・・。
谷中霊園に行ったら、是非、親分に話を聞かせて貰って下さい。

 幼少期の水戸家の教え

9代水戸藩主斉昭の七男慶喜

水戸藩とは、徳川御三家!の一つ。

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宗家に跡嗣を出す2の藩とは違うのは、以下の家訓や参覲交代なしの江戸詰め

「他家に養子に入る機会があっても、譜代大名の養子に入ってはいけない。譜代大名となれば、朝廷と幕府が敵対したとき、幕府について朝廷に弓をひかねばならないことがある」(『武公遺事』)。

・「御三家であっても、水戸家からは将軍は出さない」

・水戸学(朱子学)を学び勤皇家としてしられる

・「もし、徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇なく帝を奉ぜよ」

慶喜は江戸詰めの父の元を、生後わずか7ヶ月で離れ、水戸で10歳まで水戸で暮らす。
父が、嫡子以外は国許で教育するという方針だったからだ。
ここでの教育は、慶喜に”水戸藩の誇り・役割”を植え付けた時期だったろう。

7男でありながら、斉昭は、慶喜を長男の控えとして手元に置いていたほど聡明な男の子だったと言われる。

 一橋家に入る。

12代将軍家慶、妻から水戸の話を聞く。
8代将軍吉宗の頃には、御三卿という、御三家に継ぐ家格の家が創設された。
これは、このころ早世する子が多く(七五三を迎えるのは本当に感激だった)将軍家の後嗣を守る役割の一つ。一橋家・田安家・清水家と名付けられた。
その、一橋家も、4代目から実子が授からず他家から養子を貰ってなんとか嗣いでおり、その9代目に慶喜が指名された。
これは、父斉昭の正室と将軍家慶の正室が姉妹だったことにより、水戸に立派に成長した慶喜がいるよと聞いたのが発端のようだ!
そうして慶喜、11歳で一橋家を相続。

家慶も27人もの沢山の子供に恵まれたが、成人まで成長したのはなんと、一人!
家定だけだったそうで、その家定も身体が弱く13代将軍に就いたが、宗家の後継者問題が湧くきっかけとなる。

 慶喜、後継者問題に巻き込まれる。

慶喜は、将軍家には興味なく、「天下を取って、失敗するより取らない方がいい」と言っていた。この後継者問題・幕末劇は老中阿部正弘に起因するとも言われている。
生前、家慶が次期将軍に慶喜をおしたのを、阿部が引き止めたからかもしれない。
大奥の皆さんは、節約にうるさい一橋派が嫌いなのです。

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安政の大獄桜田門外の変大政奉還については、別で詳しく勉強してみよう。

たった、1年の将軍:最後の将軍。

慶喜の人生をはしょってきたが、9歳まで学んだ水戸学:水戸家としての家訓を叩き込まれて優秀であった慶喜にとって、将軍になるのは不本意であったろう。しかし、時代は、尊王攘夷「王を尊び、夷を攘う(はらう)」という意だ!
奇しくも自分と同じ朱子学(水戸学に取り入れたれてた)を学んだ武士たちが立ち上がった時代。水戸家として、王(天皇)を尊ぶのはもちろん徳川の中でも一番尊んでいる。しかし、夷とは徳川家になる。どちらの気持ちも一番わかる慶喜にとって、ここはどれだけ辛い事だったか想像できる。
これを、穏やかに終結させれるのは水戸出身の自分の役目と思って、将軍に就いたのかも知れない。そして、

「もし、徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇なく帝を奉ぜよ」

の家訓を重んじたならば、自ら戦う事はせず、(かといって攘夷軍に加勢するわけにもいかない)速やかに『大政奉還』して、新体制を自ら作ろうとしたようだ。
しかし、もう世の中の勢いは止まらなくなっていた。

   新政府軍 VS 旧幕府軍

とうとう、慶喜に追討令が出る。朝敵となったのだ!
(こうなると、自殺するか、違うと訴えるかの選択しかない!だって水戸家だもの。)
これほど、慶喜にとって辛い日はなかったと思う。
その後、慶喜は自ら寛永寺で謹慎し、天皇に逆らう意のない身の潔白を証明しようとしたのだ。(→詳しくは、戊辰戦争の章で。)
痛いほどに、わかる。身の潔白は慶喜の墓にまで現れる。

 やっと、水戸家生まれとして人生を終えられる。

やっと、お墓のお話に戻って。


明治35年に公爵を得ると徳川宗家の別家徳川慶喜家』の創設を願う。


(ここに、慶喜のずっと抱えてきた気持ちが溢れている:水戸家は宗家より帝を大切に家柄。戦い途中で江戸に帰って来て、勝海舟に押し付けた後自らは寺にこもったその理由。宗家の一員として、祀られることより水戸家のプライドとしても、最後くらいは自分らしく眠りたいと思う気持ちがここにあふれている)
そうして、歴代の将軍の墓地ではなく、寛永寺の住職に、一橋家の横の場所をもらい自ら神式の墓を建て、宗家ではなく、水戸家のプライドを守っている。

           なんだか、同情しちゃうわ〜。f:id:quucyan:20151015104231p:plain

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寛永寺側にある一橋家の墓(とても綺麗に掃除されています)個別管理の為塀があります。

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f:id:quucyan:20160215113810p:plain  大河ドラマ「八重の桜」
             慶喜小泉孝太郎)が大阪から江戸に逃げる前の表情。

f:id:quucyan:20160215114230p:plain 慶喜松平容保綾野剛)に頼る場面。

慶喜が愛したコーヒーが今でも味わえる?

ちなみに、徳川慶喜家4代目当主の慶朝さんが、当時慶喜が愛したコーヒーの味を再現した豆を販売していらっしゃいます。是非、思いを馳せながら飲んでみたい。
慶喜は、西洋通で特にフランスの方と交友が深かったようなので、当時のフランス人好みの味かもしれませんね。

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一橋家の子孫の方が経営している歴史ある農場もご紹介!
是非、今では珍しい「こぶのある牛」を見に行きたい!

千葉県 酪農のさと 「安房の酪農のあゆみ」

千葉県 酪農のさと 「こぶのある牛」

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  関・連・記・事

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『チェック‼︎』室町時代覚えたかな?<<レベル1>>

問題:赤い番号は何かわかるかな?答えは下にあるよ(28問) 

1333年 後醍醐天皇、京都帰還。

1334年 *1を鎌倉へ配流。

1335年 中先代の乱*2建武政権より離反。

1336年 湊川の戦い*3戦死。
      光明天皇擁立。*4制定(室町幕府成立)

      後醍醐天皇*5へ(南北朝の争乱へ)

1338年 新田義貞、越前藤島に戦死。

      *6北朝より征夷大将軍に任ぜられる。

1339年 後醍醐天皇死去(52歳)。

1348年 四条畷の戦い→楠木正行戦死(23歳)

1349年 足利基氏鎌倉公方に。

1350年 観応の 乱→尊氏・直義兄弟の抗争。

      倭寇高麗沿岸を侵す。

1358年 足利尊氏死去(54歳)

1367年 高麗使来日、倭寇の禁圧を求める。

1368年 応安の半済令足利義満*7に。

1369年 倭寇、明の山東・ を侵す。明、倭寇の禁求める。

1375年 高麗使来日、*8を求める。

1378年 足利義満、京の室町に花の御所造営。

      今川貞世、肥後で菊池武朝(南朝側)を破る。

1388年 倭寇高麗の光州を攻め、州都を焼く。

1389年 高麗軍、対馬を攻撃し 奪還。

1390年 土岐氏の乱→幕府、美濃守護土岐康行を討つ。

1391年 明徳の乱→山名氏清敗死。

1392年 南北朝の統一後亀山天皇京都に帰還し、*9天皇に神器を譲る。

1393年 幕府、土倉役・酒屋役の課税を恒常化する。

1398年 義満、朝鮮王朝に倭寇禁圧を約し、修好の意伝える。

1399年 *10の乱→大内義弘、堺で敗死(45歳)

1401年 義満、第1回*11を派遣。惣の発達。

1402年 遣明使帰国。義満、明の国書を受け取る。

1404年 義満、明使より「日本国王之印」「永楽勘合」受領し、*12貿易始まる。

1408年 足利義満死去(51歳)。

1411年 明使を拒絶。明との国交中断。

1416年 上杉禅秀の乱→禅秀、鎌倉を攻める。

1419年 *13の外寇→朝鮮王朝軍、対馬に来攻。

1426年 近江坂本の馬借ら京に乱入。

1428年 正長の*14→京畿土民、徳政を要求して蜂起。→正長の徳政碑文。

1429年 播磨・丹波土一揆

1432年 義教、明へ使者派遣し日明国交回復。大和土一揆

1434年 勘合貿易復活。

1438年 永享の乱→幕府。鎌倉公方足利持氏を討つ。

1441年 嘉吉の乱→赤松満祐、将軍義教(48歳)を殺害。

1451年 琉球の商船兵庫に来着。大和の土一揆 山城に

1454年 土一揆蜂起。幕府、*15令公布。

1455年 鎌倉公方足利成氏、上杉房顕と武蔵分倍河原に戦い下総古河に敗走。

1457年 太田道灌江戸城築城。

1467年 *16の乱おこる(〜77)→京都で激戦

1472年 近江坂本の馬借一揆

1474年 *17一向一揆

1477年 応仁・文明の乱一応終結。

1480年 幕府、琉球の入貢を促す。

      農民、疲弊し、連年各地に一揆蜂起。

1488年 加賀の一向一揆→守護富樫政親を高尾城に攻め、国中を支配。

1491年 *18、伊豆を支配。

1495年 北条早雲、大森氏を追い小田原城入城。

1500年 京都祇園山鉾巡行復活。

1506年 越前守護*19一向宗吉崎御坊攻撃。

1510年 三浦の乱→日朝間断絶

1516年 幕府、大内義興勘合貿易の管理を命ず。

1523年 寧波の乱→寧波で大内・細川の使者争う。

1526年 今川氏親「今川仮名目録」定める。山口・小田原などの城下町栄える。

1533年 石見の*20開発。法華宗徒による京都市政。

1536年 伊達稙宗*21を定める。天文法華の乱おこる。

1542年 *22、美濃を支配。

1543年 ポトルガル人、*23に漂着し鉄砲を伝える。

1547年 最後の勘合船。武田信玄「信玄家法」定める。

1551年 ポトルガル船、豊後に来航。陶晴賢大内義隆を殺害。

1553年 上杉謙信武田信玄*24の戦い(以後5回)

1555年 毛利元就厳島の戦い陶晴賢を破る。

      南蛮貿易で、*25栄える。

1560年 *26の戦い→織田信長今川義元(42歳)を討つ。

1565年 三好義継・松永久秀ら、将軍*27(30歳)を殺害。

1567年 織田信長斎藤龍興*28を陥し岐阜と改名。

      ポトルガル船、長崎に来航。信長、美濃加納を楽市とする。

1568年 信長、足利義昭を奉じて上京。

*1:護良親王

*2:足利尊氏

*3:楠木正成

*4:建武式目

*5:吉野

*6:新田尊氏

*7:征夷大将軍

*8:倭寇の禁

*9:後小松

*10:応永

*11:遣明使

*12:勘合

*13:応永

*14:土一揆

*15:分一徳政

*16:応仁・文明

*17:加賀

*18:北条早雲

*19:朝倉定景

*20:大森銀山

*21:「塵芥集」

*22:斎藤利政(道三)

*23:種子島

*24:川中島

*25:堺・平戸

*26:桶狭間

*27:義輝

*28:稲葉山城

『チェック‼︎』安土・桃山時代覚えたかな?<<レベル1>>

今回は27問。頑張って!    答えは年表の下にあるよ。

1568年 織田信長*1を奉じて上京。

1570年 *2の戦い→信長、*3*4を破る。

      石山合戦始まる。伊勢長島の一向一揆

1571年 信長、*5焼打。

1572年 三方原の戦い→*6、家康軍を破る。

1573年 信長討伐を謀った将軍義昭を信長追放(*7滅亡)

      信長、朝倉・浅井を滅ぼす。

1575年 *8の戦い→信長・家康軍、武田軍を破る。

      信長、*9を築き居城とする。上杉謙信能登七尾城を攻める。

1577年 信長、安土城下に、*10の制を敷く。

1580年 信長、本願寺*11と和す(石山合戦終結)イギリス商船、*12に来航。

      信長、大和に検地実施。

1582年 *13の戦い→信長・家康、武田勝頼を討ち武田氏滅亡。

      本能寺の変。→*14の奇襲。

      *15の戦い。

1583年 *16の戦い→秀吉、柴田勝家を討つ。

      秀吉、石山本願寺跡に、*17を開始。

1584年 *18の戦い→家康、秀吉軍を破る。

      スペイン商船、平戸に来航。

1585年 秀吉、関白となり藤原姓を受ける。
      *19、秀吉に降伏(四国平定)

      *20、秀吉に降伏(北陸平定)

1586年 秀吉、太政大臣となり、豊臣の姓を賜る。

1587年 秀吉、九州、*21を降す(九州平定)・*22追放令

1588年 秀吉、長崎を直轄領とする。後陽成天皇聚楽第行幸

      秀吉、*23令。天正大判を鋳造。

1590年 秀吉、*24征伐→北条氏降伏、続いて奥州制圧(全国統一)

      家康、江戸城入城。奥羽の検地。

1591年 *25の身分法制定。秀吉、ルソン総督に服属を勧告。

1592年 全国の戸口調査。文禄の役→挑戦出兵開始。

      秀吉、*26制度を制定。

1594年 伏見(桃山)城完成し、秀吉移る。

1597年 慶長の役(再度の朝鮮出兵

1598年 秀吉死去(63歳)朝鮮より撤兵。

1600年 *27の戦い→家康の東軍、西軍を破る。

1601年 東海道に伝馬制度。慶長金銀鋳造。京都所司代設置。

城内にお城が二つあったの? 大阪城(NO.59)

先日9時の開館と同時に、沢山の観光客であふれ始めた。この大阪城は昭和6年(1931年)に復興したもので、外から見るより中は残念な作りになっているのは否めない。

当時の絢爛豪華さが…鶴がちょっとひ弱な感じがする〜。
ただ、この堀の大きさ、石垣の石の大きさはピラミッド以上ではないかと思う。(見たことないが…)

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この大きな石。とは行っても中ぐらいであるが。
写真に、通常の大きさと分かりやすいのを選んだ為。大きいのは、写真に入りきらず、
反対に、大きさがわかりずらかったのだ。この辺に見える石垣は、江戸時代。徳川の代になっての献上の石。た・確かに、戦時中には運べない大きさだ!

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大阪城の歴史

信長時代は石山本願寺
1532年 山科の別院から石山本願寺となり、僧侶の武装化が本格的になる。
1570年 石山合戦が始まる。
1580年 石山合戦和睦
      信長は、この三方を川に囲まれた石山本願寺の立地を高く評価し、
      本能寺の変の頃には、津田信澄にここを見張らせておいて、
      後にさらに大きな城を築く予定にしていたようだ。
1582年 本能寺の変

秀吉時代の大阪城

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1583年 大坂城築城着工。(この頃は大坂だったそうだ。)
      初期:1日のべ2・3万人
      後期:1日のべ5・6万人
      (この頃の第二の都市、堺の人口:5万人。)

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      本丸だけの土木費で545億なら、その3倍はかかりそう!
      本丸が完成した後、秀吉は大阪に移るが、さらに亡くなるまで工事は
      続いたそうです。

1598年 秀吉の死
1600年 65万7千400石の1大名に転落。
1614年 方広寺鐘銘事件・冬の陣(砲弾により一部崩壊)
1615年 夏の陣(すっかり焼けてしまう)
これは有名な大坂夏の陣図屏風』(現大阪城のモデル)官兵衛の息子・黒田長政が戦勝記念に部下の黒田一成(武士だよね?)に書かせたという屏風。(アップで見ると、一人一人の表情もさることながら、家康や幸村も書かれていてスゴイんです!)で、ここで注目したいのは、城内。
もちろん、黒いお城が大坂城。その手前の4層の屋根が見えるのが、西の丸もとは迎賓館な場所だった。
秀吉が無くなった後、家康は秀頼の後見人として大阪城に入り、ねねが居たこの西の丸に入り天守閣を勝手に作った。この頃は、2つのお城があった貴重な時期。

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      松平忠明大坂城下の復興を命じられる。(城は手付かず)
1619年 松平忠明大和郡山へ移封。
      大坂藩を廃止して直轄領(天領)とする。
1620年 徳川秀忠による工事。
      豊臣の名残を消し去るように、大きく、白い城を築城した。
      各大名に担当区域が決められた為、大名は競って大きい石(分かりやすい
      ように家紋入り)や貴重なものを調達した。
1629年 大阪城、完成。 

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徳川時代大阪城

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1660年 煙硝蔵に落雷。
      82tの火薬・鉛弾約43万発・火縄3万6千本・家屋1500棟が倒壊し
      煙硝蔵を石造りに。→現存(2016年6月まで内部特別公開中)
1665年 落雷により天守が焼失。(天守がないまま放置)

1868年 12月9日 王政復古慶喜が二条城より移る。
          (250年振りに徳川家が大阪城入り)
        1月3日 鳥羽・伏見の戦いで敗北・江戸に退却。出火による焼失。
            新政府軍に明け渡し。  

現在の大阪城
1925年 大大阪記念博覧会の会場となる。(日本随一の大都市)
1930年 昭和天皇即位式の式典の記念事業として焼失以来約270年間無かった
      天守閣の復興が議会で可決され翌年再建が始まる。
      復興天守第1号。
      寄付金の募集金額150万(現在の600,700億)がすぐに集まったが、
      当時大阪城内は陸軍の軍用地であり、寄付金の6割は軍に充てられた。
      

大阪夏の陣図屏風が、現大阪城のモデルになったが、天守閣の外壁鳥獣画の鷺(サギ)は鶴になっており、また4階までは、徳川時代の白塗りで、5階は豊臣時代をモデルにしているところは面白い。

 

1995年 平成の大修理(2年間)エレベーターが設置される。
1997年 国の登録有形文化財に。
2007年 外壁の塗り替え:より豊臣時代に近い黒塗りに。

真田のゆかりの地:冬の陣の真田丸の真相。

真田山の位置は、大阪城にくっついていた出城のようだったと言われていたが、

先日のヒストリアでも検証していたが、少し離れた場所にあったようだ!

下に、現在の地図に、当てはめてみる。オレンジ色が河などを利用したMAXの大阪城(冬の陣の頃)。青色が今でも空掘町と呼ばれる地域で、地元の人は、ここが掘りだったという。赤色が今回検証された新たな真田丸の位置

先日、実際に歩いてみたところ。この周辺は小高く山になっていて、確かにこの赤色の建物や学校のあるところは、道との高低差があり、いわゆる崖、塀のようになっている。

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 1:徳川の大阪城の位置
 2:秀吉の大阪城の位置
 3:越中井(ガラシャの亡くなった地)
 4:ガラシャの像
 5:玉造稲荷(秀頼)
 6:三光神社(抜け道が有名な神社)
 7:心眼寺(真田丸跡地の碑)
 8:真田丸(冬の陣)
 9:鎌八幡(幸村必勝祈願の寺)
10:徳川のモグラ作戦
11:空掘(現在の空掘町)
12:備前島(徳川軍の大筒から本丸に打たれたとされる)

 今回の新しい発見のキーポイントは
心眼寺を含め、このあたりは巨大な石山本願寺があったせいか、たくさんのお寺がありました。さらに高台という立地の良さに、幸村は目をつけたようです。
徳川の的になるべく、この真田丸をさらに目立たせ、相手を挑発します。

挑発に乗った徳川軍は南から、細い寺町を走る事になりました。
突進した徳川軍は真田丸のお堀に慌てるももう、遅し。後から後からやってくる味方の軍勢の勢いで、お堀に落っこちてしまいます。罠にハマった徳川軍は、上からの真田勢の鉄砲に為す術がなかく、次の作戦に出ます。

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それなら、モグラ作戦だ!

真田からの鉄砲を避けるように、近くまで、道を掘りながら、掘った土で築山を築きそこから、徳川軍の鉄砲隊が攻撃したと言われる。このモグラ作戦は、黒田長政が送った屏風にも見られるので、機会があればよ〜く見てみてね。
ちなみにこの築山は、当時の鉄砲が届くギリギリの距離のようだ。
しかし、この築山はまた、真田からは大筒での攻撃の絶好の対象にもなった。

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三光神社 抜け穴がある事で有名な神社。
5メートル先くらいは見えますが、その先は本当はどこに向かっているのでしょう?
事務所の方は、今より大阪城は近くにあり、大阪城に繋がっていたとおっしゃっていました。

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心眼寺 真田丸の北東に位置した寺。
寺の前には、『真田幸村出丸城跡』と石碑が建てられています。門にも六文銭の家紋。
1622年に真田父子の冥福を祈るために「真田山 心眼寺」として創建。当時は、幕府直轄領のため、お墓は建立されず、400回忌に当たり墓石を建立されています。
京都見廻組であった、桂早之助・渡辺吉太郎のお墓もあります。

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心眼寺の裏の道。真田丸の一部を彷彿させる。自然の要塞になったのが頷ける段差だ。

鎌八幡 必見幸村が冬の陣で必勝祈願した寺。ぞぞぞ〜っ!とするよ!

鎌八幡(円珠庵)は縁切りで有名なお寺です。内部の撮影は禁止なので、載せられませんが、検索すると、写真が出てきてます。お寺のHPに絵がありましたので、お借りしました。この絵の通り、ご神木に祈りを込めて鎌を突き刺して縁切りをお願いするようです。いろいろな縁があるとおり、人との縁や、持病との縁・自分の性格との縁…、人だけに絞ると、怖くておののいてしまいますが、縁を切ることで、明るい未来を想像してここに来ただろうとの想像してお参りしましょう。
ちなみに、わしゃは「冷え性」との縁切りをお願いしたにゃ。

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鎌八幡(円珠庵)の公式ホームページはこちら。

ゆかりの地パンフレット

大阪で見つけたパンフレット!左から、大阪のゆかりの地(玉造・天王寺・平野・道明寺)と年表・地図を記載。これを持って歩いている人も多かった。真ん中:大阪城に行ったら、櫓の特別公開を開催していた。わしゃが興味あったから載せたけど、今回は時間の都合で行けんかった。右:28ページもある冊子(和歌山ちから入れてるね〜)
「真田ミュージアムも建設中(3月13日オープン)なので、力入っているんだろうね。冊子の中は、和歌山だけではなく、大阪・長野まで幅広く紹介。ちなみに長野の「信州上田真田丸大河ドラマ館」は1月17日からオープンしている。

下記にリンク貼ってるよ〜。

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  関・連・記・事

rekineko.hatenablog.com

『チェック!』江戸年表覚えたかな?<<レベル1>>

問いは32問。江戸時代は長いから大変だけど、覚えておくと楽しいよ!頑張れ!
答えは、一番下にあるよ。

1603年 家康、*1となり江戸に幕府を開く。

1604年 糸割符法制定。内外貿易船に朱印状・五街道に一里塚。

1605年 家康、将軍を辞し、*2征夷大将軍になる。

1606年 駿府に銀座を置く。

1608年 姫路城完成東大寺大仏殿再建。

1609年 島津氏の琉球支配。オランダ船貿易許可(平戸)

1610年 名古屋城完成。

1611年 松江城弘前城完成。

1613年 キリスト教大迫害始まる。

1614年 方広寺鐘銘事件。高山右近ら148人を、マカオ・マニラに追放。
      *3

1615年 *4。秀頼(23)自刃し、豊臣氏滅亡。

      一国一城制定める*5禁中並公家諸法度を制定。

1616年 家康、死去(75)。ヨーロッパの船の来航を*6に限定。

1619年 頼宣を和歌山に(御三家成立)箱根関所を設置。*7制度。

1620年 桂離宮創建。秀忠の娘(和子)女御となる。

1622年 外様大名の妻子を*8に置く。

1623年 秀忠、将軍を辞し、*9がつぐ。

1624年 日光東照宮陽明門着工(〜36完成)

1625年 僧天海、寛永寺を創建。

1633年 *10

1634年 諸大名の妻子を江戸に置く。

1635年 *11を定める。

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1636年 長崎出島完成し、ポトルガル人を移す。

1639年 鎖国令→ポトルガル人の居住・来航を禁止。

1643年 田畑の永田売買を禁止

1649年 慶安の御触書を発布。

1651年 家光死去(48)由比正雪の乱。

1654年 玉川上水竣工。

1657年 江戸明暦の大火(江戸城本丸など焼失)

1647年 各地に寺子屋おこる。

1657年 光圀『大日本史』編纂開始(1906完成) 助さ〜ん!格さ〜ん!

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1663年 樽廻船の開始。

1668年 閑谷学校創建。

1687年 *12令発布。

1688年 大阪堂島に米穀取引所を設置。

1695年 金銀貨幣改鋳。

1702年 *13の仇討、翌年四十六士切腹

1703年 伊勢御蔭参り流行。

1709年 5代将軍綱吉亡くなる。生類憐れみの令廃止。新井白石登用。

1712年 6代将軍家宣亡くなり家継7代将軍になる。

1714年 絵島生島事件発生!

1716年 7代家継亡き後、吉宗8代将軍になる。

1721年 *14設置。

1722年 参覲交代在府を半年に緩和(〜30)

1732年 *15の大飢饉

1741年 百姓一揆盛ん。

1742年 公家方御定書を制定。関東地方大水害。

1745年 吉宗大御所となり、家重9代将軍になる。 

1751年 吉宗死去(68)。薩摩藩木曽川改修を命ず。

1753年 諸大名に租米の10分の1を貯蔵させる。

1758年 宝歴事件

1760年 家重大御所となり、家治10代将軍になる。

1764年 本居宣長古事記伝』起稿。(〜98)

1767年 家治、田沼意次側用人にする。

1772年 *16、老中に就任。

1774年 杉田玄白前野良沢*17を出版。

1782年 天明の大飢饉

1784年 田沼意次、暗殺される。

1786年 10代家治亡き後、家斉11代将軍になる。

1787年 松平定信老中となる。3年間の倹約令。天明の打ちこわし。

1788年 尊号事件起こる。

1789年 奢 禁令、棄捐令、囲米を命じる。5年の*18令。

1790年 人足寄場を江戸鉄砲州による。寛政異学の禁。

1791年 男女混浴の禁。最上徳内択捉島に至る。

1792年 ロシア使節ラクスマン根室に来航。

1793年 松平定信、辞職を命じられる。将軍家斉の大御所時代。

1800年 *19、幕命により蝦夷地の測量開始(全国〜16)

1825年 無二念打払令

1837 年 *20の乱                  

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1841年 老中水野忠邦による*21が始まる。(〜43)

1853年 ペリーが浦賀に来航。プチャーチンが長崎に来航。

1854年 *22締結。

      *23締結。

1856年 ハリス、米総領事館として下田に入港。

1858年 日米修交通商条約調印・*24

1859年 紀州藩徳川家茂が将軍に。

1860年 咸臨丸、アメリカへ。

      *25井伊直弼暗殺)

      皇妹和宮の家茂への降嫁発表(公武合体政策の推進)

1861年 ロシア艦の対馬占領事件・英公使館襲撃事件

1862年 坂下門外の変・皇妹和宮の家茂への降嫁・寺田屋騒動

      *26事件・尊王攘夷論の激化

1863年 長州藩、下関で米・仏・蘭艦を砲撃。薩英戦争。

      八月十八日の政変(七卿、長州へ下る)f:id:quucyan:20151204223218p:plain

1864年 新撰組池田屋襲撃事件。

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      禁門の変長州藩、幕府と交戦)・第1次長州征討

      *27連合艦隊、下関砲撃。

1865年 第2次長州征討。

1866年 *28の密約成立。
      将軍家茂の死去→長州征討の中止→*29将軍就任。

1867年 *30即位

      *31勅許。坂本龍馬中岡慎太郎、京都で暗殺される。

      *32令。

こたえ

羽生君と晴明さんが出会った〜。知らなかったはわしゃだけか。

陰陽師の里(兵庫県佐用町仁川)を訪れた後、せっかくなので加古川の道満屋敷(現:正岸寺)を訪れてみたにゃ。

今は、式神を閉じ込めていたという、井戸もなくて、ワンワンに泣き続けられたので、ゆっくり拝観できませにゃんだ。が、ここに道満は住んでいたようだにゃ。
珍しい家紋に目が釘付けで気がつかんかったけど、3本位の筋塀にゃ?

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↑このお堂の中に、道満様が鎮座されているはずにゃ。

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ここで、ご主人が、どうしても神戸市御影にある噂の『バターコーヒー』を飲んでみたいっ!ってことで、ここから30分位先にあるという「セイメイサン」と呼ばれてる、素朴な仏像をパスして、御影に向かったにゃ!あ〜セイメイサ〜ン!

 

おおっ!(御影に到着)

ぬあんとっ!現代の晴明を演じる羽生結弦さんで有名になった弓弦羽神社ではないですか?呼ばれてますね〜。(勝手に・・・)

とりあえず、記念にお参りしてみまひょ!

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お手水‼︎まさかの八咫烏? これは・・・まさかの陰陽師に繋がる?

思ってもみなかったが、羽生くんもなんか繋がるのかも知れないな〜。

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拝殿

手前の可愛い鳥居をくぐって、お参りします。こじんまりとしていい感じ。

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おお〜。ここにも八咫烏。 この神社の家紋のようだ。

おおっ〜。絵馬も五芒星だ!うひょ〜。陰陽師・晴明の旅の締めになんとぴったり〜。

知らなかった〜。わしゃだけ?知らんかったのは?

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現代では八咫烏=男子サッカーのマークになっている。加茂一族は八咫烏を祀る一族だったらしいので、加茂さんもなにか繋がってるかもしれないにゃ。

f:id:quucyan:20160114174515j:plain  立派な本殿。神明造だね。

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拝殿の右手にちょこんとあった神明造の社、てっぺん(千木)が、伊勢の内宮と同じ、二個半(カットの向きが違うけど)伊勢では、この白い幕?布?が風で煽られると、思いが通じると言われる状況なので、ラッキー!思わず、なむ〜。

帰って境内の地図を見たら『四阿』だって〜(笑)          f:id:quucyan:20151015104231p:plain
四阿って、あずま屋ってことのようで、あずま屋・・・立派だった(トホホ)

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 今日のご主人様の本当のお目当ての『御影ダンテ』。

 わしゃは暇だ〜。

 メニューは、「バターコーヒー」

       「バターコーヒー」のウインナー

       「バターコーヒー」のフロート

 だって。ってバターコーヒーだけじゃん?

 いんだって。バターコーヒー飲みに来たから…

 だって。

 なんで、こんな苦い水が好きなんだろう?

 

f:id:quucyan:20160114183227j:plain ご主人さま〜。わしゃ用に、ミルク頼んでけろ〜。

 あ、メニューにないっ!

 コーヒーについてくるミルク、分けて・・・

 

 豆を焙煎する時にバターを加えるという、

 珍しい焙煎方法で、コーヒーがまろやかになるので、

 遠方からも、ここまで飲みに来たり、豆を取り寄せる

 人も多いらしい。今日もたくさんの人が豆を買って

 帰ってましたよ。〜

 

mikage-danke.jp

f:id:quucyan:20160114183057j:plain コーヒーだけで、帰るのはもったいないと

 『御影イコール洋菓子 の街だ!』

 「ケーキ買う!」って言い出した。

 めんどくさっ。

 って、ことですぐ近くの高杉に世界一の

 ショートケーキが有るということなので

 思い切って行ってみた。入ってすぐ、御影ロールケ

 ーキにすればよかったかもと思うようなお値段。

 ご主人様にとって、うまいけど〜(涙)

 お店の名前の通りのようでした!世界一ですから〜!

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  関・連・記・事

rekineko.hatenablog.com

日本一の兵(つわもの):真田幸村の一生。

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1567年 2月 2日 真田昌幸の次男として誕生。(幼名:弁丸)

1573年 4月12日 武田信玄病死する(7歳)

1582年 3月11日 信長の武田攻めが始まる。新府城を捨て当主と岩櫃城に。

            しかし、譜代の小山田の進言により、岩山城に向かう。

            小山田の裏切りにより武田勝頼、一族とともに自害。

            武田家滅亡(16歳)             

            信長に臣従。滝川一益の配下になる。

      6月 2日 本能寺の変。      

                     6月19日 神流川の戦い。一益、人質とともに伊勢に落ち延びる。 

      6月21日 沼田城奪還。 手子丸城奪還。

      6月24日 上杉が長沼城に入る。上杉家に臣従。 

      6月26日 一益を追って北条氏碓氷峠から佐久に入る。

      6月29日 一益の人質、小諸城木曽義昌に預けられる。

      7月 9日 北条家に臣従。 

      9月17日 一益の人質、家康に引き渡される。

      9月25日 徳川家に臣従。(北条と徳川の和睦)

             上野の沼田領・・・北条氏

             佐久・・・・・・・真田氏 

             事実上、領地縮小に納得いかず、上田城を改修を始める。

1583年 8月15日 家康の娘(督姫)が北条に嫁ぐ。

1585年 7月15日 昌幸、越後上杉氏と二度目の同盟。

            幸村(信繁)を人質に出す。事実上豊臣家の傘下。(19歳)

      8月 2日 徳川軍に大勝利。(1,200人 VS 7,000人)

      8月28日 徳川軍、上田より撤退。その後、北条が数回攻めに来るも撃退。

      

      11月頃  豊臣の人質になるため、幸村、大阪へ。

1586年       家康、秀吉に屈服。真田家は家康の余力大名に。f:id:quucyan:20160113164351p:plain

1590年 3月    真田家、前田利家上杉景勝ともに小田原城攻めに参戦。

             昌幸・幸村・・・上田の統治

             信幸・・・・・・沼田の統治

      4月19日 昌幸、松井田城を攻略。幸村の初陣(24歳)

            秀吉の奥州出陣に参加。

1592年 2月上旬  朝鮮の役に参陣する。

      11月   信幸が伊豆守、幸村が左衛門佐に任ぜられる。 

1594年       幸村、大谷吉継の娘(竹林院)を正室に。

1600年 3月13日 家康が大阪城に移る。

      7月    家康と共に上杉景勝を討つために関東に向かう。

      7月17日 豊臣家五奉行から、家康を討つべき旨の連署状が出される。

      7月21日 昌幸らの下野犬伏の陣に石田三成の密使が到着。

            昌幸・幸村は西陣に、信幸は徳川につくことになる。

           (34歳)

      9月 6日 秀忠軍、昌幸・幸村の篭る上田城を攻めて敗れる。

      9月15日 関ヶ原の合戦で、西軍が敗れる。

      12月12日 昌幸・幸村、高野山麓の九度山に配流される。

1611年 6月 4日 昌幸病死。真田長谷寺に葬られる。(45歳)

1612年       幸村、入道して好白と号する。

1614年 10月1日 家康、大阪追討を命令。
      10月9日 幸村、嫡子の大輔らとともに大阪城に入場する。

            幸村、真田丸を設けて大阪城を守る。 

      12月4日 東軍、真田丸を攻めるが敗退。

            本田正純、幸村を招降するが、幸村応じず。

     12月20日 東軍と大阪方の間に和議が成立(48歳)

1615年 1月24日 幸村、大阪城中より上田にいる姉・村松殿に手紙を送る。

      2月10日 幸村、石合十蔵に手紙を送り、決死の覚悟を述べる。

      3月10日 幸村、姉婿・小山田壱岐

      4月 6日 家康、大阪再征を命令する。

      5月 6日 道明寺の戦いで、後藤又兵衛、薄田隼人ら討死。

            幸村、伊達隊と交戦する。
      5月 7日 幸村、大助を大阪城中に送り人質とし、秀頼の出馬を乞う。

            幸村、家康の本陣へ突撃する。家康を窮地に追いこむが、 

            討死する(49歳)

                    

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